昇り降りの日々

学務様が見てる

眼鏡を買った

タイトルの通りだ、眼鏡を買った。だが僕の視力はとてもいい。裸眼で1.0以上ある。高校時代は2.0あったが衰えを感じるので大体それくらいだろう。

 

要は、僕が買ったのは伊達眼鏡である。但し、ただのガラスを入れるのも癪だったので最近流行りのブルーライトなんちゃらというやつを入れた*1

正直どんなものを買ってもよかったのだが、店員さんが結構乗せてくる人だったので、こちらも負けじと30分ほど眼鏡を試着してやり、すべてに感想を言わせ、やっとこさ選んだ。

 

ちなみに眼鏡をかけた姿は20代くらいのサラリーマンぽくなった。なんだこれ。

 

そもそもなぜ眼鏡を買ったのかということだが、外を歩くときに自分を認知してもらわないようにするためである。普段僕の身の回りにいる人間は眼鏡をかけていない僕を見ているはずなので、眼鏡をかけてれば僕だとばれない。

おかげで往来を歩きやすくなった。

 

眼鏡をかけて何かしら変わるかなあとか思ったが特に生活に変わりはなかった。ただ少し、賢くなったような気がする(しない)。

 

 

それはそうとこんな空中リプが飛んできていた

 

 

眼鏡に頼る前に本当に生活を変えたほうがよい気がしてきた。もはやボスはカウンセラーである。

 

 

 

*1:正直根拠がわからないので今のところ水素水と同じような類だと思っている。まあ追加料金はかからなかったし別にいいだろう、UVカットもついているらしいし

嫌われる勇気

という本があるらしい。書店で見かけたがダイヤモンド社の本はなんとなく買う気にならなかった(強い偏見)。一応ダイヤモンド社が出している本を全く読まないわけではない。流行りに乗ってドラッガーとかは遠い昔に読んだ覚えがある。内容は覚えていない。

 

人間、割と嫌われるのが怖いものであるらしい。僕も割とその傾向が強く、幼いころから怒られてばっかりで、気が付いたら人の顔色を伺いながら生きるようになっていた。僕の行動の理由づけの8割くらいは「嫌われたくないor 失望されたくない」というものである。なんと生きづらい。

 

様々な媒体の出現により人間の感情が見えやすくなっている今の社会に身をさらしていると、無意識に人間の顔色を伺ってしまう僕は本当に苦しい。すべての人間が大太刀を振り回し、その切っ先を僕に向けているように感じてしまう。別に人間一人に嫌われたところで僕の知ったところではない。それはわかっている。でもやはり、心の奥底から湧き上がる恐怖に耐えられない。

 

幼いころからこのある種病的な恐怖に苦しめられているが、いまだに自分の中で有効な対処法は見つかっていない。恥じるべき歴史だが、他人を見下すことで自分を保っていた時期もあった。しかしこれは現代社会の理性ある人間がすることではない。

あの本を読めばどうにかなるのだろうか、どうにもならなさそうだ。

 

今世にはびこるのは強い主張をする人間と強く感情をむき出しにする人間ばかりである。言ったもん勝ちの空気が世間に流れ、声を荒げ他人を批判ではなく否定する。しかしこの世相感すらも思い込みの激しい僕の妄想かもしれない。強い肯定感が欲しい。しかしこれも結局恐怖の裏返しだ。天井に小さく「Yes」と書いてあるのを見て感銘を受けたミュージシャンがいるそうだ。そんな感じなのかもしれない*1

 

やっぱり僕は海辺で一人本を読みながら暮らしたほうがいいのだ、とこうやってまた自分をよくわからずに正当化して生きている。いつまで持つだろう。

 

 

最近暗いことばっかり書いてるから暗くなるのだ。次は普通の内容を書く、と縛ることにする。

 

 

*1:これは防衛機制だ。大物と自分を重ねて気持ち良くなるなよな

関係

人間とコミュニケーションをとり続けることは僕にとって割と難しい。関係を構築したあとに維持することができない。

メールが来ても返す気が起きない、ラインで会話を続けるのが面倒で通知をすべてミュート、Facebookでもコメントやチャットが耐えられなくてアプリをアンインストールした。どうもこの類のSNSなどでの会話は、返事をすることを強いられているようで耐えられない。きっと今頃通知が溜まりまくっているのだろう。通知が溜まるとストレスがアホみたいに溜まるので怖くて見られない。

 

対してTwitter、ブログなどは一方的に発信するだけで、相手からのレスポンスも適度にありながらもそれに返答する必要はない。なんて気楽なのだろう。

 

 

「コミュ力は作れる」と、とある先輩が言っていた。実際その通りだと思う。ある程度のコミュニケーション能力なら全力で努力すれば一時的に作れる。ただし、ものすごく疲れる。そして維持ができない。

初対面の人間にはコミュ力を上げて接するのでそれなりの関係を築けるが、元々が前述したような性格なので、関係が続くはずもなく大概疎遠になる。引っ越しが多かったのでいろいろなところに知り合いがいて年賀状もそれなりに届いていた時期があったが、返すことを止めてついに一通も届かなくなった。

 

なぜこんな性格になったのだろうとしばらく考えていたが、恐らくめんどくさがりがエスカレートした結果な気がしている。あらゆるものを面倒だと切り捨てていたらついにコミュニケーションが面倒になったということだ。

大学に入ってからというものこの傾向があらゆるものに見られていて大変よろしくない。が、だんだん考えるのも改善するのも面倒になってきた。本格的にダメだ。そのうち生きるのが面倒だと言いだしそうだ。(すでに言っている)

 

 

先日Twitterの全てのツイートをすべて削除した。ついにTwitterも耐えられなくなった。先ほど気楽といったが撤回する。

 

多分僕は今の社会にあまり向いていないのかもしれない。できるなら誰もいない海辺の家でひっそりと本を読んで暮らしたい。でも適度に承認欲求は満たされたい。あらゆるものを面倒だと切り捨ててきた僕が、一番面倒な存在になってきているような気がする。

風呂

風呂に入れない。極度の乾燥肌なので風呂から上がった時のあのバリバリと乾いていくあの感覚が本当に嫌いだ。あと単純に寒い。脱衣所の気温と湿度がそれなりに保たれていれば入る気になるのだが、一人暮らしの狭いユニットバスでそんな贅沢は言えない。

 

しかしあまりにも風呂に入らないのもいくら冬とはいえ不潔だし、乾燥することを除けば風呂に入ることはとても好きなので、どうにかこうにかして探した折衷案が近所の銭湯に通うことである。大学のキャンパスができてから作られた割と新しい銭湯である。

普通のお風呂はもちろん、檜風呂や露天風呂、蒸し風呂に寝風呂、サウナに関しては3種類ある。温泉自体はとても好きなのでこんなに種類があるのは楽しい。

 

脱衣所にも暖房がかかっているので、快適に着替え、保湿剤や薬を塗りたくり、湯冷めも知らずにコーヒー牛乳やアイスを楽しめる。(銭湯でテカテカの男が牛乳を飲みながらニヤニヤしていたら多分僕だ。)

 

問題は、一回の入湯料金が高いことだ。土日に関しては700円くらいとられる。しかしこの銭湯は会員になれば月7000円で入り放題である。しかも同施設内に併設されているプール・岩盤浴・ジムまで使い放題ときた。入会するかかなり悩んでいる。

 

 

だが、最大の問題がある。

帰るときにめちゃくちゃ寒いのである。こればっかりはどうしようもない…

マフラー

日本の都会では11月なのに雪が降ったらしい。しばらく気温が下がったままのようなので、これにて冬到来ということだろうか。

修羅の国もそれなりに気温が下がり、玄海灘から容赦なく吹き付ける冷たい風が僕らのキャンパスを襲い、あまりの寒さに今期初めてマフラーを巻いた。

元々南国に住んでいたこともありマフラーを巻いたことは無かったのだが、大学二年生の冬に、突然思い立ちマフラーを買った。その時から僕はこの長い布の虜になっている。マフラーを巻くと妙にわくわくするのだ。

 

別にこのマフラーは故郷の母が編んだでもなく、ましてや愛しの恋人が編んだわけでもない。そもそも僕は恋人がいない。ただ、なぜかこのマフラーを巻くと外に出たくてしょうがなくなる。

 

コートを羽織り、マフラーを巻き、ブーツを履き外へ向かい、暗い空に浮かぶ星を眺めながら煙草をふかし、かじかむ手を缶コーヒーで温め、思索に耽る(ふりをする)。本当にベタな酔い方だけれど、こんな風にカッコつけて季節に酔うのが大好きだ。ただ他人には見られたくないので、ほとんど人の通らない大学の裏の川辺でよくやっている。(もし見かけたとしても見ないふりをして通り過ぎてほしい。)

 

 

しかしこのわくわくは何由来なのだろう。色合いやデザインが単純にドンピシャだっただけなのだろうか。それともガキの頃にマフラーを巻かなかった分のわくわくが今になって襲ってきているのだろうか。

(試しにgoogle先生に尋ねてみたが、車やバイクのマフラーを変えている人しか見当たらなかった。)

生活

理想の大学生活とは何だろうか。僕が高校のころ描いた大学生活とは、研究室に寝泊まりし、黒板に数式を書きなぐり熱い議論を交わし、余暇には友人と酒を飲みながら馬鹿笑いし夢を語る、というようなありがちなものを想像していた。

もしくは、森見登美彦の小説のように、四畳半のボロアパートに住み、男友達とむさくるしく鍋を囲みながら所謂リア充に呪詛を吐く、というようなものだった。

森見登美彦の小説のせいで、京大生はみんな四畳半のボロアパートに住んでいると思っているし、京都での大学生活へのあこがれもいまだに捨てられていないが、ここでは深く書かない)

 

そんな生活に憧れ大学に入学し、研究室に通いつめ、ゼミを開いていた。だが、正直想像通りだったものはほとんどない。ゼミは参加してくれる人がほとんどいなかったし、四年生以上にならないと研究室には寝泊りできなかった。

 

三年の後期になった今、コンビニからの帰りでそんな憧れをふと思い出した。

 

憧れとはどこへやら、毎日のように寮の談話室で友人らと留年の危機を嘆き、ペンを握ることは無く、授業制度を呪い教員を呪い大学を呪い気候を呪い世界を呪い、夜中にコンビニへ向かいジャンクフードを買いあさり、また馬鹿笑いしながらチューハイを開けカップ麺をすする。

昼夜は完全に逆転し、1,2限は毎日のようにゴミに囲まれたベッドの中で過ごし、寝間着のまま研究室に向かえばボスに卒業を心配されるありさまである。

 

こんな自堕落な生活を、希望に満ち溢れた大学1年生の僕が見たらどう思うのだろう。しかし考えてみるとこれは森見登美彦の小説で読んだやつなのではないだろうか(違う)。

 

 

今日は頑張って3限に出る。きっとこの宣言はきっと今日も果たされない。

夜明けが近い。卒業は遠い。