昔、社会科(もしかしたら国語だったかもしれない)で習ったことがあるのだが、日本人には「ハレ」と「ケ」と呼ばれる概念があるらしい。一生のほとんどはいつもと変わらないケの日を過ごし、冠婚祭など普段と違う晴披やかな日をハレの日と呼び、日本人はその二つの日を明確に区別してきたそうだ。
僕のケの日常といえば、毎年のように鬱を患い、とんでもない振幅で精神の上げ下げをして、自己承認欲求を満たしては破壊して、意味の分からない生活をしている。そんな日常に嫌気がさし、ハレの日を満足に得られない僕はアイドルゲームに手を出した*1。
それからというもの、あり得ないくらいに生活は充実した。掌の中で日ごとに簡単に得られる承認と快楽、年に数回訪れるハレの日(ライブ)、それを数年続けているうちに、それ自体を生きがいに生きるようになった。もちろん精神の上げ下げはなくなったわけではないが、辛いことでも、ハレがいずれ訪れるとわかっていたので、死ぬ気で頑張ってこられた。
そして今年、僕(もしくは僕ら)にとってとんでもないことが起きた。ハレの日が二週間に一度やってくるのである。詳しく言うと、ライブツアーと称して、五月の頭から二週間ごとに全国各地を巡りながら八月までライブが行われるのだ。アイドルに生活を支配されている僕が参加しないはずがなかった。一昨日は行ったこともない石川まで大枚叩いて行ってきた。来週は大阪、その二週間後は静岡にわざわざ飛ぶのだ。今はLV*2という便利なものがあるのにも関わらずだ。
今、僕の日常はハレの日に塗りつぶされつつある。
しかし、ハレの日が続いたとき、それは本当にハレの日と呼べるのだろうか?かつてのハレの日を日常として生活をしてしまった場合、何をハレの日と呼べるのか?何をよりどころにして生きるのか?
ハレとケを倒錯しているまでならまだいいのかもしれない。きっと日常をハレに塗りつぶされたとき、生活を維持するには、それを途切れないようにひたすらに塗りつぶし続ける地獄のような日々が続くのかもしれない。
今の僕はそうなりつつあるが、もし今の拠り所(アイドル)が無くなったら、僕は何で日常を塗りつぶすのだろうか?もしくは元来日本人がしてきたようなハレとケを明確に区別してきた生活に耐えられるのだろうか?断続的なハレの日は八月に終わる。その時僕はケの日常に耐えられるのだろうか。
なぜこんなことを考えたのかというと、物理や数学をやっている同期の人間たちが、進路に悩み、研究に悩み、院試に苦しみ精神を痛めている傍らで、僕たち*3だけが異常なくらい明るく過ごしていることに恐怖を感じるようになったからだ。
僕はどうしたらいいのだろう、何を考えるべきなのだろう。ハレとケのバランスのとり方を考えればいいのか?僕が自由な学生だからいけないのか?働いて強制的にバランスをとればいいのか?そんなことをしたら僕はきっと死にかねない。
うまくバランスが取れる人は、ライブとかで得たエネルギーをうまく正の方向に変換して生きているのだろうなぁ、と思う。僕もそれができないわけじゃないし、むしろそうしたい*4。けどこうも頻繁にあると、切り替えがうまくいかないのである。
とてもタイミングの悪いことに、二週間ごとに訪れるハレの日が終わると、その二週間後に院試がある。事実上院試がツアーファイナルみたいなものである。それまでに僕は、ハレの日との付き合い方にある程度の答えを出さなければならないのかもしれない。