昇り降りの日々

学務様が見てる

寂しさの記録

独りで生きていけると信じていた。そうではないことに気づいてしまった。でも僕はそれを全部捨ててしまった。

 

僕はこの小さい世界を抜け出したあと、どうやって生きていくのだろう?僕には今、この一本の糸しか残っていない。きっとそれを手放す時が近いうちに訪れる。とても悲しい気持ちでいる。

大好きな場所もいつかは無くなり、彼らはバラバラの旅に出る。いつかまた会える気がしない。きっと昔一緒にいた人達みたいに、心の姿形が変わってしまう。

寂しさを埋めるための道具としての人間を心のどこかで求めてしまっている。恋人が欲しいと叫ぶ人達も皆こんな気持ちでいるのだろうか。

 

このまま僕は空っぽになってしまう。何も残らない、すがるものが無い。怖い。誰か僕の話を聞いてくれ。何が僕を正常たらしめているのか理解している。だからどうしたらいいかわからない。だから世界は配偶者を作るのか。情愛と性欲を分けてほしい。生を肯定してほしい。愛しさなんて無い、ただ、乾きを満たしてほしいだけだ。

こんな干からびた人間になってしまったことに嫌気が差す、私はとても悲しい。

お金持ちになったらやりたいこと

門司港にある旧三井倶楽部みたいな擬洋風建築の家を建てたい

暖炉のある部屋でゆらゆら揺れる椅子に揺られてビートルズを聴きたい(アーティストにとくに意味はない)、And I love herがいい

たまにレコードとか聴いてみたい、祖母の家にあったものはまだ残っているのだろうか

ピアノとかも弾きたい、たまに誰かに聞いてもらいたい

庭に花とかを植えてみたい、けど手入れをサボってしまうかもしれない

広い庭に小さなバラ園を作って、たまに眺めたりしたい

二階には書斎を作って、自分の好きなものを飾ったり、本をどっさり置いておきたい

綺麗な家には似合わないスポーツカーよりのセダン(もちろんMT)に乗りたい

 

でもきっと叶わないので、寮を出たらそこそこ広い部屋に住んで、洗濯機と乾燥機を買いたい

それだけあればいいかなぁ、乾燥機高そうだけど

でも、ちょっとお金に余裕があったら電動歯ブラシも買ってみたい

 

なんか、最初に書いた理想の家、昔住んでいた祖父母の家とそっくりな気がしている、あそこは楽園だった、きっとばあちゃんにとってもそうだったのだろう

あの家はまだ残っているらしいけど、知らない誰かが住んでいるらしい、あの青い屋根の家

ばあちゃん会いてえなぁ

ぼんやりとした諸々


何だかよくわからない不安感と脱力感に襲われている。なんだこれは。
最近30分以上何かを集中してやることがないし、院試は刻々と迫ってくるし、物理やってないし、何だか冬のメンタルみたいになっている。
望む自由を勝ち取り、できるだけそれを長引かせる方法がこれだからやるしかないのに、自主性の心に甘えて何もしない。
どうしたらいいんだ、とかじゃない、やるべきことはたくさんある。体がついてこない、心が付いてこない、というか何についていくんだ。
別に病んでいるわけじゃない、鬱の時のそれとは違う。でもぼんやりとした、形のない何かが襲ってくる感覚だけが明確に僕を苦しめてくる。
せめて美しくすべてを終わらせたいが自分の諸々が美しいとは全く思わないのでどうしようもない。
醜く腐ったこれをどう処理したらよいのか、美しい形として何か残したい。
きっと何かしたところで一瞬のコンテンツとして消費される、虚しい。
傷口を勝手に一人で抉って気持ちよくなる人種だからどうしようもない。心の気持ちのいい部分を抉るときの本当に死んでしまいそうな苦しみが本当に気持ちいい。なんでだ。
こんな散らかった文を一気に書き上げるだけでも何か変わるのか、気持ちはきっとすっきりする。少しだけ。
誰か僕の話を聞いてくれ。でもそういってきっと理解される気はさらさらないのだ。
こんなに条件式に雁字搦めにされた僕が満たせるのはきっと自明な解しかない。

ハレに塗りつぶされるケ

昔、社会科(もしかしたら国語だったかもしれない)で習ったことがあるのだが、日本人には「ハレ」と「ケ」と呼ばれる概念があるらしい。一生のほとんどはいつもと変わらないケの日を過ごし、冠婚祭など普段と違う晴披やかな日をハレの日と呼び、日本人はその二つの日を明確に区別してきたそうだ。

 

僕のケの日常といえば、毎年のように鬱を患い、とんでもない振幅で精神の上げ下げをして、自己承認欲求を満たしては破壊して、意味の分からない生活をしている。そんな日常に嫌気がさし、ハレの日を満足に得られない僕はアイドルゲームに手を出した*1

それからというもの、あり得ないくらいに生活は充実した。掌の中で日ごとに簡単に得られる承認と快楽、年に数回訪れるハレの日(ライブ)、それを数年続けているうちに、それ自体を生きがいに生きるようになった。もちろん精神の上げ下げはなくなったわけではないが、辛いことでも、ハレがいずれ訪れるとわかっていたので、死ぬ気で頑張ってこられた。

 

そして今年、僕(もしくは僕ら)にとってとんでもないことが起きた。ハレの日が二週間に一度やってくるのである。詳しく言うと、ライブツアーと称して、五月の頭から二週間ごとに全国各地を巡りながら八月までライブが行われるのだ。アイドルに生活を支配されている僕が参加しないはずがなかった。一昨日は行ったこともない石川まで大枚叩いて行ってきた。来週は大阪、その二週間後は静岡にわざわざ飛ぶのだ。今はLV*2という便利なものがあるのにも関わらずだ。

今、僕の日常はハレの日に塗りつぶされつつある。

 

しかし、ハレの日が続いたとき、それは本当にハレの日と呼べるのだろうか?かつてのハレの日を日常として生活をしてしまった場合、何をハレの日と呼べるのか?何をよりどころにして生きるのか?

ハレとケを倒錯しているまでならまだいいのかもしれない。きっと日常をハレに塗りつぶされたとき、生活を維持するには、それを途切れないようにひたすらに塗りつぶし続ける地獄のような日々が続くのかもしれない。

 

今の僕はそうなりつつあるが、もし今の拠り所(アイドル)が無くなったら、僕は何で日常を塗りつぶすのだろうか?もしくは元来日本人がしてきたようなハレとケを明確に区別してきた生活に耐えられるのだろうか?断続的なハレの日は八月に終わる。その時僕はケの日常に耐えられるのだろうか。

 

なぜこんなことを考えたのかというと、物理や数学をやっている同期の人間たちが、進路に悩み、研究に悩み、院試に苦しみ精神を痛めている傍らで、僕たち*3だけが異常なくらい明るく過ごしていることに恐怖を感じるようになったからだ。

 

僕はどうしたらいいのだろう、何を考えるべきなのだろう。ハレとケのバランスのとり方を考えればいいのか?僕が自由な学生だからいけないのか?働いて強制的にバランスをとればいいのか?そんなことをしたら僕はきっと死にかねない。

 

うまくバランスが取れる人は、ライブとかで得たエネルギーをうまく正の方向に変換して生きているのだろうなぁ、と思う。僕もそれができないわけじゃないし、むしろそうしたい*4。けどこうも頻繁にあると、切り替えがうまくいかないのである。

 

とてもタイミングの悪いことに、二週間ごとに訪れるハレの日が終わると、その二週間後に院試がある。事実上院試がツアーファイナルみたいなものである。それまでに僕は、ハレの日との付き合い方にある程度の答えを出さなければならないのかもしれない。

*1:そんな強い動機付けがあったわけではないが

*2:ライブビューイング、ライブの中継が地方の映画館で見ることができる。わざわざ現地に行く必要がない

*3:アイドルオタクが同期に一人いるので「たち」と言った

*4:推しに「このライブを辛い日常を生きる糧にして」、と言われた、まさしくハレの日のあるべき姿だ

頭の中に住む人

僕の頭の中には人が住んでいる。正しくは住んでいるときがある、というのが正しいかもしれないが。

 

決して何かを気取っているわけではなく、あとで思い返すと、あぁ人が住んでいたのか、と認識するレベルの話だ。

彼(もしくは彼ら、性別はわからない)は僕の精神状態に応じて現れて、僕の代わりに思考をしたり、機嫌が悪いときは僕を攻撃したりする。たまに増える。一番ひどいときは4人くらいいた。

毎年の冬なぜかひどい鬱になり、その時によく現れている。

 

3月くらいからはお目にかかっていないので恐らく今は健康状態がいいのだと思うのだが、今年は早くお目にかかる気がする。

 

だから何という話なのだが、健康なときにこれを書いておくことで、また人が住み始めたときに彼らのことがよく知れるかもしれない、と考えただけのメモ書き程度の話である。

君は天才ではない

自分は天才型だと逃げていないだろうか

興味があること以外できない、と逃げていないだろうか

耳障りのいい言葉だけを恣意的に選んで気持ちよくなっていないか

質問するだけで何かした気になっていないか

 

 

知らないことを知っているように鼻高々に語る君よ

君のハリボテは、本物の前では簡単に崩れ落ちることを忘れてはならない

 

自分の大きさを正しく認識し、何ができるのか、何ができないのかを明確にしろ、自分を必要以上に大きく見せるのをやめろ、自然の前に謙虚であれ

 

わからないものはわからないと言え、わからないことに「自分は○○なタイプだからw」と言い訳をするな、怠惰に理由付けをするな

 

でも自信のあることはしっかりと主張をすること

ハリボテの補強をするなら今だということをよく理解すること

縦書きの文字が読みたい

小説などを久しく読んでいない。

読みたい読みたいとは思っているのだが、隙間時間に小説などを読むのが好きではないので、なかなか読めずにいる。

 

だが主な要因はそれだけではない。

本を読もうとすると、他にやることがあるんじゃないか、となんとなくまずい気持ちになってしまう。実際はそんなことないのだが。

 

結局僕は「まとまった時間がある」かつ「ほかにやることがないような状況」じゃないと読めないらしい。

電車通勤とかすれば読めるようになるかもしれない。