昇り降りの日々

学務様が見てる

二次元アイドルの話

僕は二次元アイドル(アイマス)にはまっている。それを知ってる人からはよく「二次元は裏切らないからいいよねぇ、結婚もしないもんねぇ」と言われるが、そんなことはないと思っている。前にあったAKBの結婚発表も、自分が熱中していたコンテンツが突然理不尽に終了した、と解釈すれば、二次元にも起こりうることだ。コンテンツの寿命というのは僕らの年齢に比べ非常に短い*1。そして、何かしらの事件が起きないとも限らないので、いつか突然終わってしまうこともある。

つまり裏切る裏切らないは次元を選ぶ指標にはならない。ではなぜ僕は二次元のアイドルにはまっているのだろうか?

 

1, 虚構の中の現実を楽しむか、現実の中の虚構を楽しむか

前者は二次元、後者は三次元のことを指している。

二次元世界は作られた世界、いわば虚構である。しかしその中に入り込めば、そこで起きていることは全て真実になる。二次元のアイドル達は僕らの前で演技をしない、本物の姿を見せる。この世界では彼女たちは本当にトップアイドルになるし、本当に年をとらない。現実では起こり得ないことが、虚構に持ち込まれることで真実となり、現実世界よりも自由度がとても高くなる。但し、虚構の中から飛び出すことは出来ないので、現実を越えることは出来ない。しかし最近は多くのコンテンツが、二次元アイドルと三次元の声優やイベントと接続することでいくつかの問題を解消している。

対して三次元は、現実の中で作られたストーリーを演じる。現実の中でのアイドルは、仮面を被って演じているのか、素顔で演じているのか僕らには区別がつかない。設定はあくまで設定にすぎず、その裏には絶対に覆せない不変の現実がある。その彼女達の姿を受け入れ、彼女達の中に虚構を作ることでそれを楽しむことができる。

最近では、握手会など目の前に彼女達が存在することを認識させることで、その虚構が限りなく真実に近いと錯覚させている。そうすることで、現実世界の中で真実のストーリーがあると信じ込むことが可能になる。その快感は二次元のそれを遥かに上回るはずだ。(経験したことがないので予想だけど。)

 

もう少し書くことがあった気がするんだけど、思い出せないのでここまで。

 

明日からライブツアーの最終公演だ。多分魂が抜けるし、それが戻ってきたときまた書き足すかもしれない。

院試まで2週間しかない現実からは目を逸らしている。諸般の事情が重なり、6割で落ちると思っている。

*1:10年間この規模で続いているAKBとかが異常。

写真

院試勉強をしなければならないのだが、ここ二日くらい全くやる気が出ないので、放置していた外付けハードディスクのデータ整理をしていた。1TBあるのにつかわれているのは100GBもなくて、しかもその半分は中学生のころに取り貯めた写真だった。それを見て久々に思い出した、僕の趣味は写真を撮ること「だった。」

 

大量の写真は、恐ろしいほど丁寧にフォルダ分けされており、しかもそのフォルダごとに、写真が撮られたときの状況を事細かに記したテキストファイルまでついていた。正直全くというほど覚えていないことばかりで、よくもまあこんなにを記録することがあったものだ、と他人事のように感心した。

写真に写っていたのは、ほとんどが人だった。思い思いの表情を浮かべていたり、変なポーズをしていたり、いろんな写真があった。しかも特別な日(例えば学園祭)のみでなく、日常の写真がかなり多くあった。その写真たちは間違いなく、その時の「僕にしか」撮れない写真だった。ハードディスクには、僕の歴史だけでなく、もっと大きな、僕の住んでいた世界の歴史が詰まっていた。

そしてその写真のフォルダは2014年で更新が止まっていた。大学に入学した年だった。

多少大学一年生の写真があったが、ほんの数か月分しかなかった。僕は写真を撮らなくなったのか?と色々思い出してみた。

 

大学生になって、僕はフィルム一眼レフカメラを買った。フィルムカメラはずっと憧れだったので、舞い上がっていろんな場所に写真を撮りに行った。だが、フィルムカメラを始めて数か月、僕は写真を撮るのをぱったりやめた。写真を撮るのが楽しくなくなったのだ。一人暮らしを始めてから、周りに人がいるのが当たり前ではなくなった生活の中で、僕がとることのできる写真は、風景だけだった。単純にとる場所がなくなったのもあるのだが、インターネットを探せば、僕がとった場所と同じ場所でとられた写真があふれている。それを見て虚しくなったのだと思う、この写真たちは僕がとる必要のないものだ、僕が切り取らなくても他の人がもっと上手に切り取ってくれる。それは高校の時まで撮っていた「僕にしか」撮れない写真と対極の位置にあった。

さらにむなしくなった僕は、撮った写真を消すようになった。今でもその習慣は続いていて、1か月に一回くらいスマホにある写真を丸ごと消す。ラーメンの写真が何になる、部屋の写真が何になる。ツイッターにアップすればその価値は一瞬で消えるし、何ならツイッターにアップすることに一切の価値はない。

 

今日も狭い部屋の片隅に、忘れられたカメラケースが陣取っている。これをまた近いうちに使うようになる日が来るのだろうか。それとも、虚しさがそれよりも早くやってきて、売り払ってしまうかもしれない。

めっちゃ車が欲しい

タイトルの通りです、めっちゃ車が欲しい。今バイクに乗っているのだけど、飽きたわけじゃなくて別の楽しみが欲しくなってきた。何なら大型バイクも欲しい、免許ないけど。ラボのパソコンで中古車漁るくらいには欲求が爆発している。

長距離巡行はやはりバイクより車が圧倒的にいい。車があればいつでも失踪できる。疾走できる。気軽にばあちゃんの家に遊びに行きたいし、軽率に土日観光に行きたい。友人のところにも気軽に行ける。何なら車でオタクライブに行きたい。

後は音楽が聞けるのがいい。バイクは危ないので音楽は聞けない。これはかなり大きい。

ただ欲しい車への要求が高すぎて、いい車が見つからない。

 

その1、ある程度安いこと

新車とか買えない。300万もないし、あと五年学生をやるつもりなのでローンがしんどい。オタク趣味もあるし。保険も考えるとあんまり強い車にするとまずい。一人暮らしだし実家からの支援もないので結構条件がしんどい。

 

その2、めっちゃ加速してほしい

これは友人のランエボに乗ったせいだ。2.0L、4WD、ターボを併せ持った、シートにたたきつけられるような加速が忘れられない。加速で言ったらランエボインプレッサが庶民の買える車の最高峰といえるので、この二台のうちどちらかを買えばいいのだが、維持費が高い。その1が満たせない。

 

その3、かっこいい

そのままである。絶対セダンがいい。妥協してスポーツコンパクト。ミッションはMTがいい。単純明快な理由だ。内装もかっこいいのがいいので、できるだけ新しいのがいい、めっちゃ光ってほしい。

 

こう書き連ねると、僕の要求は「柔らかくて丈夫なコンクリートが欲しい」と言っているような感じである。その1の条件がなければ買えるんだけど。すべては金がないのが悪い。

あと1年半無事故ならゴールドになるし、25歳から保険がまた安くなるので、博士に入るまではちょっとグレードの低い車で我慢するのもありかもしれない。

 

ただ、学生やってると絶対平日に車のらないんだよなぁ、キャンパスの中に住んでるし。土日毎週出かけられるかというとそうじゃないし。レンタカーで妥協するか、と考えた時期もあったけど、借りるのにポテンシャル障壁が多すぎる。悩ましい。駐車場があるいい部屋に引っ越してくるまで通学するのもありだけど、今の部屋が防音しっかりしすぎてるので引っ越したくない。オタクだから部屋で騒ぎたい。わがまますぎる。

上に書いたことは圧倒的な金があればすべて解決するので、結局5000兆円がどうのこうのという話になるのである。

欲求が爆発していつもより荒い口語で一気に書いてしまった。

 

部屋とピアノと私

僕はピアノが好きだ。一人でも壮大なメロディーを奏でられる唯一の楽器だと思っている。そしてどんな楽器よりも簡単に、誰にでも音が鳴らせる。でも、自分の気持ちをそのまま表すように正直に音が出る。

と、偉そうに書いてみたものの、僕はピアノがろくに弾けない。

 

2~7歳までピアノを習わされていて、音大出身の母様の元で厳しく練習させられていたが、練習が大嫌いで、ついに痺れを切らした母様が引っ越しのタイミングでやめさせた。

中途半端にピアノに別れを告げた僕は、またピアノを弾きたいという気持ちをどこかにずっと抱えながらも、母が怖すぎてピアノに触れなかった。

 

高校入学と同時に引っ越したとき、部屋のスペースの都合で、僕の部屋にピアノが置かれた。僕の部屋は一人部屋で、母の監視の目がなかった。さらに幸いなことに、我が家のピアノは電子ピアノだった。僕は幼稚園生の頃の楽譜を引っ張り出し(幸いにも一部残っていた)、バレないようにヘッドホンを付けながら、ちまちま練習を始め、小さい賞を貰えるくらいまでやりこんだ。やっぱりすごく楽しかった。途中で限界を感じて母に恐る恐る教えを請い、練習に付き合って貰った。10年も経ったらさすがに丸くなっていて、怒鳴られることはなかった。

 

大学生になって独り暮らしをするようになってからは中々ピアノを弾かなくなり、どんどん下手くそになり、今となっては譜面もろくに読めなくなってしまったが、やっぱり叩けば音が出るし、適当なメロディーを弾くだけでも楽しい。

 

そんなこんながあって、僕はピアノが好きである。

 

この記事はタイトルが先に思い浮かんで、かつ全く寝付けなくなったので書いた駄文です。オチはない。趣味は自分語りです。

寝られなくなったのでピアノを弾いてきます。

1984年

ジョーオーウェルの著書「1984年」を読んだ。ディストピア小説の最高峰として名高く、前々から読みたいと思っていた本だった。オタクライブで静岡まで行く予定があったのでその間に読んだ。読むのに時間がかかるかなぁ、と思っていたが、三章建てのうちの二章から一気に物語が何回も反転し、気が付いたら飲み込まれていた。そんなこんなで静岡につく前に読み切ってしまった。

 

大まかなストーリーは*1、市民が完全に政府に監視された社会で生きる主人公が、ある事件を通して政府への疑いを深めていき、恋人とともに反政府運動に傾倒していくという話である。

最後の一文があまりにも有名なので、実はオチは知っていた。ただ、全部ストーリーを読み切った後に読むその一文はあまりに重くて、本当に救いようのない気持ちになった。

 

感想を書きたかったのだが、これ以上何を書けばいいのかわからない。読書感想文は毎回適当にストーリーを書いて出していたので、感想の書き方がわからない。誰か教えてくれ。

*1:wikipediaのほうが説明がうまい。オチまで書いてあるが、オチを知っててもなおこの作品の面白さや根幹は揺るがない(主観)はずなので多分見ても大丈夫だと思う。https://ja.wikipedia.org/wiki/1984%E5%B9%B4_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

N重思考と流動性

憧れを客観的に見れてるのか?みたいな記事を書いた直後*1、青春への歪んだ憧れを語る記事*2を書いている。

これはいくつか自分に都合のよい思考が並列に存在してるのだろうか、それとも、思考は時間相関が結構早く減衰するんだろうか。

 

まあ何であれ、自分の思考ですらあてにならないということだ。

教えるという傲慢

同じようなことをひかるさんが書いていたけど気にしない。

 

何気なくラジオを聞いていると、「僕たちの子供に教えてあげたい 本当は○○がxxなんだってこと(うろ覚え)」みたいな曲が流れてきた。ほーん、と思って聞いていたが、よくよく考えたら結構ヤバイ歌詞だ。何が真実かなんて時代によってコロコロ変わるし、そもそも何が正しいかなんて教えてもらうものではない。それを教えてやろうなんて上から目線も甚だしい。

 

 

僕は昔、教師になりたいと思っていた。そのために教職課程の単位も教育実習を残して全て揃えた。

いつか恩師がしてくれたみたいに、誰かを教え導きたいという崇高な志を持っていたが、ある日突然「僕は何を教えたいんだ?」と思い始めた。

教師になりたいと思っていた頃は、自分の行動や思想が正しく、社会をきっと豊かにするものだと信じきっていた。そして同じような人間が増えれば、この世はさらに豊かになるとどこかで思ってしまったのかもしれない。もしくは僕がした失敗をさせなければもっと素晴らしい人材が育つはずだと思ったのかもしれない。

こういった自分の思考を省みたとき、とても怖くなった。自分は無意識に思想の統一をしようとしていたのだろうか?

物を教える人はそれが正しいと信じて疑わずに教えてるのではないか?と考えるととても恐ろしく感じた。

もちろんこれは極端な妄想であり、教えることについて自ら批判をしながら何かを教えている人がいるのかもしれない。しかし高校までを振り替えると、そういうことをしながら教えていた人は数えるくらいしかいなかったように思う*1

 

この考えは、「子供が欲しい」という願望にもそのまま適用できると思っている。

僕はごく稀に子供が欲しいと思うことがあるのだが、何でそんなことを思ったんだろう、と考え直すと、やっぱり自分の都合のいい教育をしたいという悪い欲求*2が根底にあるっぽい、ということがわかった。

 

こういうふうに文にすると、自分への戒めになる気がして書いた。

*1:主観。

*2:これも主観