昇り降りの日々

学務様が見てる

お説教を受けた話

友人と研究室で話しててる最中、「本当にしんどくなったら死ぬ」みたいな話をしたら怒られた、という話。

僕は金銭的に恵まれているわけではないので奨学金を借りているが、これは本人に返済能力が無くなると返済しなくて良くなる*1。正直やりたいこといっぱいあるし、それなりにカネがかかるようなことをしている。そして、金のあるなしは精神の余裕に直結している*2。そしていずれ僕が奨学金を得られなくなったとき、自分が求める水準を得られる程度のカネがないなら死にたい、と考えている。金がない状態ってのはめちゃくちゃしんどい。僕自身は相当な金で維持されているし、その他も金で維持されている。

しかし話をした友人は、何があっても死んではいけない、お金をかけない方法もあるじゃん、妥協とは違う方法で、みたいな話をしてきた。そんな方法があるならどうやってやるのか教えてほしい、と思って聴いてたがどれもこれも結局金が必要なのだ。

それは健康でかつ金のある、そしていつでもリカバリーできる環境がある人間ができることなんだよ、と思った。

いや、最悪健康さえあればいいのかもしれないが、僕の体はそこそこ維持費がかかるし維持するのに結構な頻度で通院しなきゃいけないししんどい。墓まで付き合わなきゃいけない病気もあるし、根本が解決しないものもある。確かに遠い未来には解決されるかもしれないけど。彼には知ったこっちゃない問題かもしれないけど。

それは捉え方だよ、みたいなこと言われたけど、じゃあ心まで取り替えなくてもいいから僕の体と交換してくれ。普通にお風呂に入りたい。夜中発狂することなく安眠したい。注意力を上げたい。いやお前には些細なのかもしれんが俺には大問題だし、健常であるために金がいる。時間がいる。

マレーシアの人間は大変な暮らしをしてるからなんだ、彼らが幸せだからなんだ、世の中の不幸な人間が増えれば俺のこの今の現状は変わるのか、オレの心は晴れるのか、もっといい暮らしがあるってなら用意してくれ、努力をしろなんて簡単に言うな、何でもかんでもにすべてを捧げればいいのか。

自分に至らないところがあるのはわかっている、極端なことを言ってるのもわかってる、少ないサンプル数で議論してるのもよくわかってる、言い訳ばっかりに聞こえるかもしれない、でも俺は今しんどいんだ、頼む、これ以上否定*3しないでくれ、明示するだけじゃなくて用意してくれ。僕は僕の普通で暮らしたい。5000兆円くれ。愛が足りねえって言うなら僕に都合の良い愛をくれ。

*1:重大な病気や本人死亡など

*2:少なくとも僕の場合は。

*3:これは否定ではなく批判だったのかもしれない

変わること、残したいもの

僕は昔から周りの環境が変わりやすい生活をしてきた。

引っ越しも多かったし、趣味もコロコロ変わる。そういった生活に身を慣らすうちに、同じ状態にいることを嫌うようになった。

大学に入ってもその傾向はあまり変わらず、いろんなものを転々と渡り歩いていた。

その傾向から、僕は1年前までは大学院を変えると思っていた。その証拠に、僕は3年の時からいろんな大学の研究室の見学に行った。

今大学院入試が終わって、蓋を開けてみると、2年製の頃からお世話になっている研究室に残ることになっていた。

正直僕はこの研究室の半分くらいの研究は全然興味がない。なのになぜ残ったのだろう、仮に修士から博士に進むとして、そのタイミングでも僕は研究室を変えることはあるのだろうか。そういうことを一ヶ月くらい考えていた。

一応研究室を変えるという選択肢はある。国内にあまりピンとくるとこはないけど、もし仮にドイツとかにあったら、DAAD奨学金を取ればドイツでPhDが取れる。

じゃあその選択肢が有力になったとして僕はそれを選ぶのだろうか?

研究室に限らず、僕は本当に環境を変えることに耐性があるのか、考えていた。

 

色々考えた結果、僕は環境を変えているように見せて、実際は安定したある一つの環境の中で何かしらをコロコロ変えているということがわかった。今の場合は、研究室にいかりを降ろし、その止まった船の上で色々とっかえひっかえしてやりたい放題しているということだ。

僕は港を変えることはなく、船の中の模様替えをして楽しんでいるだけだったらしい。

港を変えると、ほぼ根底からすべてを変えなきゃいけなくなる。安定した土壌の上にのみ成り立っていた僕の趣味や生活などは、かなりもろいものだった。

僕はこの港でまだやりたいことがいっぱいあるし、個々にあるものから離れられる気がしない。居心地が良すぎるのだ。

ぬるま湯に浸かっているのはわかっている。また僕はこのぬるま湯に浸かり続ける選択をしてしまった。

いつかここから出なきゃいけない。研究室に限らず、僕をなすあらゆる要素でも、だ。

錨を上げる度胸が、まだ湧いてこない。

頑張れなくなってるという話

院試は一応第一志望に受かったのだけど、正直全然頑張れなかったと思ってる。

高校の時は朝の10時から夜の22時まで勉強して、枕元には英単語帳を置いていた。

対して院試は散々だった。3年になった時に説明会行ったりしてたものの、結局院試勉強がだるくなり自大一本に絞り、4月が終わったら勉強を始める、ツアーが始まったら頑張る、など伸ばし続けた結果、勉強を始めたのは7月末だった。勉強をしたと言っても正直言われたことを必要最低限やっただけだ。

なんだろう、決められたボーダーに対してそれをオーバーランする勢いでの努力がもうできないのかもしれない。成績評価で言うなら、Dを取れば許されるのだからAを取るほどの努力はしなくていい、みたいな、そんなずる賢さがついてしまった。

この先は(もしくはとうの昔から)過去の頑張ってた頃の貯金を食いつぶしていくんだろうなぁ、とか思っている。

オチがないのでおしまい。

院試が終わりました

非常に長い苦しみの時が終わり、やっと夏休みが来ました、と思ったけどもう九月なんですね、めっちゃ涼しい。部屋の窓を開けて玄関を全開にすると、いい感じの風が部屋を通り抜けて最高です。

さて院試ですが、諸般の事情により50点ほどビハインドがある状況での受験だったのだけど、たぶん受かってそうです、よかった。金曜日に結果がわかるので正式な結果はお預けですが、落ちてたら落ちてたでどうにかします。

 

さて、院試が終わってやりたいことが山積みなので、記事を書くことで整理したいと思う。 

リスト

 

論文を読む 

論文は精読するのが4本くらいが限度かなぁ、という気がする。具体的には先輩のプレプリント、あと面白そうな論文を2本くらい見つけて精読したい。とりあえず探してみてるけどどうも見つからない。明日からの集中講義で内職しながら探そうと思う。

 

参考書一冊くらい読み始めたい

今季残りで16単位回収しなければならないので正直そんなに時間がない。多分読めて二冊くらいなのでそれを選定して、九月中には読み始めたい。候補はランダウ統計、ストロガッツ、早川さんの非平衡ファインマン統計くらい。ファインマンは途中で発狂しそうになるのでストロガッツかなぁ。でも流体もやらないとなぁ、という思いがある。欲張っても計画で破たんするのは目に見えているのでやっぱり二冊に絞りたい。

 

ツーリング行きたい

この記事を書いてる途中にタイミングよく友人にツーリングの誘いを受けたので、熊本でひとっ走りしてきます。久々にバイクで遠出するので楽しみ。

 

帰省

実は年末年始から一回も帰省してない。爺様の初盆もすっぽかしたのでそろそろ帰らないとやばい。20から一週間くらいかなぁ。でも帰省するとやることなくてしんどい。お前どうせずっと家いるやろ?みたいな感じで雑用押し付けられるし正直帰りたくないけどしょうがない。

 

本が読みたい

1984年を読み終わってから一冊しか本を読んでない。明日の集中講義が終わったらブックオフか書店かに行って品定めをする予定。帰省中にがさっと読みたい。

 

ツアーの振り返り

 5月から4か月間あったツアーのレビューを書きたい。あといくら使ったか具体的に出してみたい。多分とんでもない額になる。これも帰省中か集中講義中に書こうかな。

 

 

まとめ

明日5000円残してお金をおろして本を買いに行く。明日から集中講義が3日間あるけどどう聞く気はないので、「論文を探す」、「ツアーの振り返りをする」。ブログも書くか。どうやって暇をつぶすかもう少し考えとこう。家計簿つけるか。

それから一週間は参考書と論文をゴロゴロ研究室で適当に読む。たまに本を読む。

それから3日間ツーリング行って、一日ゴロゴロ休んで、また一週間参考書と論文をゴロゴロ読む。

それから一週間帰省。どうせ論文も読めないし参考書も読めない。一冊ずつくらい持ってくのもありな気がするけど、しんどそうなのでタブレットでも持っていってリモートでロングトークの資料でも作ろう。本もどさっと読みたい。多分これで夏休みは終わる。論文と参考書に当てられるのに2週間しかないね。夏休みとは何なのか。代わりに一杯本を読もう。

 

 

以上です。目次機能を使ってみたかっただけなので、記事というより僕のメモですね。院試お疲れ様でした。for 僕。

孤独

おそらく僕の精神の激しいゆらぎは、周りに人がいるかいないかで大きく変わっていると思う。

関わりやすい、大好きな友達と過ごす時間はめちゃくちゃに楽しいがそれが終わったら鬱状態へ真っ逆さまである。

 

高校時代に発狂しなかったのは、家族や友人が周りに必ずいて、誰かと一緒にいる時間の中から一人でいる時間を作っていたからだ。

今はその逆で、一人でいる時間から誰かといる時間を作る。もはやその労力が捻出できなくなってきたし、もはや家族といるのもしんどい。そんな贅沢な心になってしまったがために、発狂しやすくなってしまった。誰か僕を救いに来てくれ。共感してくれ。僕の話を聞いてくれ。

二次元アイドルの話

僕は二次元アイドル(アイマス)にはまっている。それを知ってる人からはよく「二次元は裏切らないからいいよねぇ、結婚もしないもんねぇ」と言われるが、そんなことはないと思っている。前にあったAKBの結婚発表も、自分が熱中していたコンテンツが突然理不尽に終了した、と解釈すれば、二次元にも起こりうることだ。コンテンツの寿命というのは僕らの年齢に比べ非常に短い*1。そして、何かしらの事件が起きないとも限らないので、いつか突然終わってしまうこともある。

つまり裏切る裏切らないは次元を選ぶ指標にはならない。ではなぜ僕は二次元のアイドルにはまっているのだろうか?

 

1, 虚構の中の現実を楽しむか、現実の中の虚構を楽しむか

前者は二次元、後者は三次元のことを指している。

二次元世界は作られた世界、いわば虚構である。しかしその中に入り込めば、そこで起きていることは全て真実になる。二次元のアイドル達は僕らの前で演技をしない、本物の姿を見せる。この世界では彼女たちは本当にトップアイドルになるし、本当に年をとらない。現実では起こり得ないことが、虚構に持ち込まれることで真実となり、現実世界よりも自由度がとても高くなる。但し、虚構の中から飛び出すことは出来ないので、現実を越えることは出来ない。しかし最近は多くのコンテンツが、二次元アイドルと三次元の声優やイベントと接続することでいくつかの問題を解消している。

対して三次元は、現実の中で作られたストーリーを演じる。現実の中でのアイドルは、仮面を被って演じているのか、素顔で演じているのか僕らには区別がつかない。設定はあくまで設定にすぎず、その裏には絶対に覆せない不変の現実がある。その彼女達の姿を受け入れ、彼女達の中に虚構を作ることでそれを楽しむことができる。

最近では、握手会など目の前に彼女達が存在することを認識させることで、その虚構が限りなく真実に近いと錯覚させている。そうすることで、現実世界の中で真実のストーリーがあると信じ込むことが可能になる。その快感は二次元のそれを遥かに上回るはずだ。(経験したことがないので予想だけど。)

 

もう少し書くことがあった気がするんだけど、思い出せないのでここまで。

 

明日からライブツアーの最終公演だ。多分魂が抜けるし、それが戻ってきたときまた書き足すかもしれない。

院試まで2週間しかない現実からは目を逸らしている。諸般の事情が重なり、6割で落ちると思っている。

*1:10年間この規模で続いているAKBとかが異常。

写真

院試勉強をしなければならないのだが、ここ二日くらい全くやる気が出ないので、放置していた外付けハードディスクのデータ整理をしていた。1TBあるのにつかわれているのは100GBもなくて、しかもその半分は中学生のころに取り貯めた写真だった。それを見て久々に思い出した、僕の趣味は写真を撮ること「だった。」

 

大量の写真は、恐ろしいほど丁寧にフォルダ分けされており、しかもそのフォルダごとに、写真が撮られたときの状況を事細かに記したテキストファイルまでついていた。正直全くというほど覚えていないことばかりで、よくもまあこんなにを記録することがあったものだ、と他人事のように感心した。

写真に写っていたのは、ほとんどが人だった。思い思いの表情を浮かべていたり、変なポーズをしていたり、いろんな写真があった。しかも特別な日(例えば学園祭)のみでなく、日常の写真がかなり多くあった。その写真たちは間違いなく、その時の「僕にしか」撮れない写真だった。ハードディスクには、僕の歴史だけでなく、もっと大きな、僕の住んでいた世界の歴史が詰まっていた。

そしてその写真のフォルダは2014年で更新が止まっていた。大学に入学した年だった。

多少大学一年生の写真があったが、ほんの数か月分しかなかった。僕は写真を撮らなくなったのか?と色々思い出してみた。

 

大学生になって、僕はフィルム一眼レフカメラを買った。フィルムカメラはずっと憧れだったので、舞い上がっていろんな場所に写真を撮りに行った。だが、フィルムカメラを始めて数か月、僕は写真を撮るのをぱったりやめた。写真を撮るのが楽しくなくなったのだ。一人暮らしを始めてから、周りに人がいるのが当たり前ではなくなった生活の中で、僕がとることのできる写真は、風景だけだった。単純にとる場所がなくなったのもあるのだが、インターネットを探せば、僕がとった場所と同じ場所でとられた写真があふれている。それを見て虚しくなったのだと思う、この写真たちは僕がとる必要のないものだ、僕が切り取らなくても他の人がもっと上手に切り取ってくれる。それは高校の時まで撮っていた「僕にしか」撮れない写真と対極の位置にあった。

さらにむなしくなった僕は、撮った写真を消すようになった。今でもその習慣は続いていて、1か月に一回くらいスマホにある写真を丸ごと消す。ラーメンの写真が何になる、部屋の写真が何になる。ツイッターにアップすればその価値は一瞬で消えるし、何ならツイッターにアップすることに一切の価値はない。

 

今日も狭い部屋の片隅に、忘れられたカメラケースが陣取っている。これをまた近いうちに使うようになる日が来るのだろうか。それとも、虚しさがそれよりも早くやってきて、売り払ってしまうかもしれない。