昇り降りの日々

そっとしておいてください

写真

院試勉強をしなければならないのだが、ここ二日くらい全くやる気が出ないので、放置していた外付けハードディスクのデータ整理をしていた。1TBあるのにつかわれているのは100GBもなくて、しかもその半分は中学生のころに取り貯めた写真だった。それを見て久々に思い出した、僕の趣味は写真を撮ること「だった。」

 

大量の写真は、恐ろしいほど丁寧にフォルダ分けされており、しかもそのフォルダごとに、写真が撮られたときの状況を事細かに記したテキストファイルまでついていた。正直全くというほど覚えていないことばかりで、よくもまあこんなにを記録することがあったものだ、と他人事のように感心した。

写真に写っていたのは、ほとんどが人だった。思い思いの表情を浮かべていたり、変なポーズをしていたり、いろんな写真があった。しかも特別な日(例えば学園祭)のみでなく、日常の写真がかなり多くあった。その写真たちは間違いなく、その時の「僕にしか」撮れない写真だった。ハードディスクには、僕の歴史だけでなく、もっと大きな、僕の住んでいた世界の歴史が詰まっていた。

そしてその写真のフォルダは2014年で更新が止まっていた。大学に入学した年だった。

多少大学一年生の写真があったが、ほんの数か月分しかなかった。僕は写真を撮らなくなったのか?と色々思い出してみた。

 

大学生になって、僕はフィルム一眼レフカメラを買った。フィルムカメラはずっと憧れだったので、舞い上がっていろんな場所に写真を撮りに行った。だが、フィルムカメラを始めて数か月、僕は写真を撮るのをぱったりやめた。写真を撮るのが楽しくなくなったのだ。一人暮らしを始めてから、周りに人がいるのが当たり前ではなくなった生活の中で、僕がとることのできる写真は、風景だけだった。単純にとる場所がなくなったのもあるのだが、インターネットを探せば、僕がとった場所と同じ場所でとられた写真があふれている。それを見て虚しくなったのだと思う、この写真たちは僕がとる必要のないものだ、僕が切り取らなくても他の人がもっと上手に切り取ってくれる。それは高校の時まで撮っていた「僕にしか」撮れない写真と対極の位置にあった。

さらにむなしくなった僕は、撮った写真を消すようになった。今でもその習慣は続いていて、1か月に一回くらいスマホにある写真を丸ごと消す。ラーメンの写真が何になる、部屋の写真が何になる。ツイッターにアップすればその価値は一瞬で消えるし、何ならツイッターにアップすることに一切の価値はない。

 

今日も狭い部屋の片隅に、忘れられたカメラケースが陣取っている。これをまた近いうちに使うようになる日が来るのだろうか。それとも、虚しさがそれよりも早くやってきて、売り払ってしまうかもしれない。