昇り降りの日々

学務様が見てる

評価

僕は何を基準にして生きているのだろうか。

自分が影響を受けやすい性格なのは知っているし、いろんなものを欲しがってしまう性格なのも知っている。

でも影響を受けやすいとは言え、世の中に存在するすべてのものを心に受け入れているわけではない。おそらく何かしらの基準を持っているはずなのだ。

例えば、僕が今欲しいものはなんだろう、と考えてみる。

志望している大学院からの合格通知、修士号、車、バイク、遊ぶためのお金、などが主なものかもしれない。

これらは大きく2つに分けることができると思う。それは「他人から評価されるものか否か」である。もっと雑に言うと「他人に羨んでもらえるか」もしくは「自分さえ楽しければいいか」だと思う。

 

修士号や合格通知は「評価されるもの」だと思う。

正直に言えば、研究をしたいという強い意欲があるのか、といえばNOである。では何故そこまでして大学院に行くのかということだが、結局のところ「価値のある者に必要としてもらいたい」からである。それは就活であったり、社会的なステータスのためであったりする。特に修士号は世界共通の資格*1なので、どこに行ってもないよりは評価してもらえるだろうという考えがある。じゃあ博士いけよという話だが、めんどくささと僕のメンタルが持たないので、その間を取ったら修士号になったというだけである。

 

そして「自分さえ楽しければいい」と言うものだが、正直こっちのほうが多い。車、バイク、家、その他QOLが上がるもの、旅行、など。これらをステータス、もしくは見せびらかすものだと信じている人がいるが、僕は全くそうは思っていない。純粋に楽しいという感情が欲しいし、旅行に行ったことのすべてを報告したりはしない*2

さてこれらには僕なりの共通項があって、それは「他人から隔絶された時間や空間がほしい」「ここじゃないどこかへ行きたい」という欲求だ。ここで言う他人は「僕に評価を下す人間」のことである。それに関しては記事を書いたことがある。ちょっと趣旨は違うけど。

 

ladder-frck.hatenablog.com

 

実はここにも評価をされなきゃいけない理由が隠れていて、これらをやるには多くの金がいるのである。僕は自分の欲求を我慢するのが何より嫌いなので、できるだけたくさんのことをしたい。それを手っ取り早く叶えるには「評価される」ことが必要だと考えている。

 

では、評価されるか否かを気にすることは醜いことだろうか。僕はそう思わない。もちろん社会制度にとらわれない生き方ができるなら評価を気にすることはアホらしいと考えるかもしれないが、僕はそれができない。社会から供給されるもの*3の多くを僕は享受しており、それに依存している。その中で多数の要素においてより良く生きたいと思うと、もっと上へ登りたい、そのための評価を得たいと思うのは自然なのではないだろうか。あなたが革命家か生まれつきの資本家であるなら話は別だが。



この記事が、自己正当化のために書かれた滑稽な記事と感じる人もいるだろう。この自分の歪みを出生や成長過程で与えられた他人からの攻撃を理由にするのは簡単だ。事実自分だってそうしてきた。幼少期に感じた恐怖、中学生時代に感じた屈辱、でももうそれらはどうしようもないのだ。過去の自分は確かにそこにいて、そして既にいないのである。事実を歪ませる事ができないなら、生きやすいように自分の認知を歪めるしかないのだ。

 

「他人の評価なんていらない、自分さえ楽しければいい」と思っている人がいたら、ぜひ僕と話をしてほしい。皮肉っているのではなくて、あなたがどのようにしてそこに達したのかを知りたいのだ。もしくは最初からそこにいたというのなら、僕はほんの少し自分の出生を恨むようになるかもしれない。

 

そして、ここに書いた感情が全てじゃないことは言っておきたい。例えば、修士号を取りたい理由にはもっとポジティブな理由があったりする。もしくは、自分の心のそれなりの領域を占めている期待に応えたいという気持ちと、見返してやりたいという気持ち、その他複数の感情が複雑に混ざりあった感情についても言えるが、これを解くだけの時間と力が今はないので、また今度機会があれば記事にしたい。

*1:僕の観測範囲内での話

*2:昔日本一周をする計画を立てている、と先輩に話したら「その事実を自慢したいからそんなことするんでしょ」と言われた事があったが、断じてそんなことはない。まだ根に持ってますよ

*3:それは産業製品であったり、生きることへの保証だったりする