昇り降りの日々

学務様が見てる

「初めまして」と「さようなら」

導入

7月31日、弊学の中央図書館がキャンパス移転事業により閉館した。

 

 

 

 

概ね書いてある通りのことを感じた。

僕はこのキャンパスが好きだった*1。それは僕が昭和初期までの建築が好きだったこともあるが、そこに刻み込まれた歴史や雰囲気、そして自分が「大学」と認識していた場所であることが大きいと思う。

僕らの所属する学部が利用していた建物は、新キャンパスに移転してすぐに、名残惜しむ間も無く跡形もなく解体された。ただこのときにはあまり何かを感じなかった。

ただ今回の図書館の閉館は、「このキャンパスが本当に終わってしまう」ということをはっきりと僕に突きつけてきた。図書館という施設は、大学の知の中心と言っても過言ではない。そんな施設がなくなるというのだから無理はない。

 

旧キャンパスから新キャンパスへ帰りながら、高校時代から憧れ続けた土地に想いを馳せた。この先の人生はこうやって「憧れたもの」や「あると思っていたもの」との別れがたくさんやってくるのだろうな、と思うと少し悲しくなった。

たった1つ施設が移転するだけなのに、ここまで考えてしまう自分もなかなかだとは思うが、そう思わせるくらいには「終わり」を自分の中で強く感じる出来事だったのだと思う。

 

多分本題

10代までは、誰かと(もしくは何かと)の繋がりが「始まる」ことが多かった。生まれたときに周りにいた人、増えていく友達、新しい趣味や好きなものの発見、新しい組織に所属する、など、挙げれば枚挙に暇がないように思う。

あらゆるものが新しくて、触れる全てが「始まり」だった。

ただ20歳になって「終わり」を意識することが増えた。正確には「終わり」を当事者として認識できるようになってきた。

自分の近しい親族がこの世を去っていくことがあった。

大事だと思っていた人の元を自ら去ることがあった。

ずっと自分の中にあった夢や憧れを追いかけるのをやめた。

上に挙げた「既に去った終わり」を引きずっているわけではない。それよりも当たり前にあると思っていたものとの「いつか来る別れ」が怖いのだ。

 

歳を取って20代になった。時間の進むスピードは10代のころに感じていたそれよりも短くて、一ヶ月、一年があっという間に過ぎてしまう。

このスピード感の中で「初めまして」に出会うことが少なってきた。きっと僕の中は既に自分にとっての「慣れしたんだもの」が大半を占められているのだと思う。それらと僕の関係、その終着点はどうあがいても「終わり」なのだ。

「始まる」が無いわけではないが、やはり出て行く量と総和すると、圧倒的に「終わり」が多い。

この先、今よりももっと早いスピードで「さようなら」をすることになる。そのたびにやってくる気持ちに耐えなければならないのだろうか。 

それともこういった「終わり」を繰り返すたびに、慣れてそれを感じなくなるのだろうか。

  

とある歌によると"本当に大事なものはそんなに多くない"らしい。僕は抱えきれないほどの「慣れ親しんだもの」を持って生きている。僕の両手に残るのは何なのだろう。

それとも、そんなことを考えなくなることが「大人になる」ということなのだろうか。

 

20代になって数年も経ちながらこんなことを書いている自分が今更恥ずかしくなってきたのでここでおしまい。

*1:上空を飛ぶ着陸寸前の飛行機がうるさかったことは許していない。