昇り降りの日々

学務様が見てる

NOと断定できない事象とそれに伴う苦しみ

生きていると「こんなこと起こりっこないけど、でも可能性はゼロじゃない」という事案にぶつかることがある。それが危険回避の文脈で使われるのなら健全だと思う。
けれど「こんなことが起きて欲しいけど起こる確率はほぼゼロに近い、でもゼロじゃない」という場合はどうだろうか。
例えば芸能人に恋をしたとして、きっとその人とお付き合い出来る可能性はほぼゼロだろう。何なら一生のうち会う可能性ですらゼロに近いだろう。
しかしゼロではないのだ。

人間は「こうなってほしい」と強く望むとき、どれだけ実現確率が低くてもそこに少しでも望みがあればそこに賭けてしまう。
大抵はその実現確率を少しでも上げるために必死で努力をするので、何かしら得られるものはあるが、そこに伴う苦しみは半端なものではないと思う。

何が書きたいのかわからなくなってきた。
要は僕は「まだ物理でやっていけるのではないか」と思ってしまっている。
まるで愛想をつかされる直前のカップルが必死で相手のいいところを探して褒めたり、旅行に誘うような滑稽さがある。
もう釣り合わないことには気づいていて、それでもいざ別れるとなるとどうしようもなく惜しいのだ。

僕が初めて真面目に抱いた夢だった。少しずつそのステップを踏み、勉強もして、僕はきっとそれをつかむんだと思っていた。
往生際が悪い。僕には向いていなかった。それを明日の結果で客観的に突きつけられる。もうやることはやったけど、これがラストチャンスだ。
願わくば彼女と、最後の思い出を作ってからお別れをしたいと思っている。女々しすぎる。