昇り降りの日々

学務様が見てる

愛と衝動

僕が良く言う「愛になりたい」と言う話。

衝動

中学一年生の頃に読んだあの話を、あの時の衝撃をよく覚えている。

(略)
国道の横断歩道へ踏み出そうとしたとたん、信号が点滅する。そんなことにさえ気がいら立って、少年は小さく足踏みした。
さっきから後ろで、小さい子供たちの声がしている。自分にもあんなころがあった、と半ばうわの空で思いながら、ぼんやり信号の変わるのを待っている少年の耳に、今までたわいもないおしゃべりだった子供たちの声が、急にはっきりした意味をもったさけびになってひびいてきた。
「にじが出てるよ。」
「にじだ、にじだ。」
思わず振り返って、子供たちがまっすぐに指さす空を見上げると、ああ、確かににじだ。赤、黄、緑、太いクレヨンでひと息に引いたような線が、灰色の空を鮮やかにまたいでいる。上端はおぼろに空中に消え、下はビルと森のかげに隠れて、見えているのはほんの一部分だ。
少年は、自分でも思いがけない衝動に駆られて、辺りを見回した。
──高い所がないか、あれが全部見える所が。
あった、すぐ目の前に、国道を横切る歩道橋が。少年はためらわず、そちらへ駆けた。いつもは、階段の上り下りをめんどうがって、ついぞ利用したことのない歩道橋だったが。
(後略)

にじの見える橋 -- 杉みき子

『衝動に駆られる』という言葉をこの時に初めて知り、後にも先にも無いような衝撃を受けた。
心のそこから湧き上がる、自分にさえも邪魔できない、一瞬で燃え上がるような激しい感情。
そんなものがこの世にあるのだとひどく感動した。

自分自身は確かに衝動的に行動することは多かったけど、それは上に書いたような詩的な表現が介入する余地の無い幼稚なものであった。
それからずっと、僕は衝動的になれる何かを、打算的では無いただ純粋な興味や愛で突き動かされる体験を求めて生きている。

愛に突き動かされる人たち

自分自身が詩的表現としての『衝動』に駆られることはなく、自分の中の「好き」をコントロールするようになっていた。
もしくは、他人から借りた知識や感情を自分のものにしたつもりになって気持ちよくなるような人間になった。
「自分の知識が借り物だとバレたく無い」
「本物の人間に自分が偽物であるとバレたく無い」
そういった「外からどう思われるか」を基準に行動してしまっている。
ぱっと見「シャカマオタク*1」である。
ぱっと見じゃなくて実際にそうなんだけど。

でももちろん、世の中にはそうじゃ無い人がいっぱいいる。
人の目も気にしない、誰にどう思われたって構わない。
にわかだと指をさされたって気にしない。
ただ、自分の中の「好き」に突き動かされる人。

そういう人たちが本当に羨ましかった。
難しい言葉を並べてわかったつもりになっている僕とは違う、彼らはただ自分の「好き」と言う感情に突き動かされて生きている。

その人たちが紡ぐ言葉に濁りはなく、ただどこまでも純粋なのだ。
その言葉たちが大好きだった。
だから、そういう人を見つけたら、無理矢理にでもブログをはじめさせて、それを紡いでもらった。
完全に個人的な趣味ではあるけど、いつでもそれを摂取できるような環境が欲しかった。

それでもみんな、自分の言葉を紡いでくれた。
音楽、キャラクター、学問、声優さん、いろんなものへの綺麗な「好き」がそこに詰まっていた。
記事が投稿されるたびに貪るように読み、スターを連打してもう一回読み直す。

そして昨日も、なんとなく「記事を書いてくれ」と友人に頼んだ。
しかし頼んだことを忘れて数分後に寝た。ひどすぎる。

今朝起きてみると、友人はちゃんと記事を書いてくれていた。
そこにあったのは、本当に、それが大好きなのだと伝わってくる、熱っぽいわけでも無いのに滲み出る「好き」が見える記事だった。
久しぶりにクリーンヒットしてしまった。
また僕は「何かを純粋に好きだと叫んでしまう気持ち」に当てられてしまった。
そうだ、僕はこういう感情が見たかった。
混じり気の無い、純粋な気持ち。
案の定、彼を直接知らない人たちにも広く読まれていて、かなり好評だった。

感動する気持ちと同時に、羨ましくなった。
言ってしまえば、僕が「関わりたく無い」と思っていた人たちに評価されている。
なぜ僕が「関わりたく無い」と思ったのか、それは僕が偽物だとバレてしまうからだ。
そこにあるのは「誰か好き」ではなく「自分がかわいい」という感情だけだ。
彼はそれを、ただ純粋な「好き」という感情で飛び越えてしまった。
ただ、美しいな、と思った。

そんなこんなで、僕はこんなお気持ち表明を朝から書いている。
こんな風に感想を書いてしまうのは無粋な気もする。
けど僕はこれを自己満足のために書く。
自分が「衝動に駆られた」証拠を残すために。

*1:斜に構えるオタク