僕は、それにあこがれていた。
そして一度だけ、それに口にしたことがある。
あの果実が本当に酸っぱいものだったなら、僕の素直になれない気持ちにも言い訳がついたのかもしれない。
ただ一度口にしてしまったそれは、甘くて、苦い、この先の人生で、それを知らないふりをしては生きていけないものだった。
けれどこの先、僕は二度とそれを口にすることはない。
僕が覚えているのは、あの果実本来のものではなく、それに付随する思い出に脚色された味だからだ。
今までもこれからも、たくさんの人間がそれを口にする。
僕はその人達を見ながら、胸にナイフを突き立てる。
紅く流れる血潮が、その温度が、人間のそれであると確かめる方法はない。
けれど痛みを感じるその間は、確かに僕の感情がそこにあることを証明してくれる。
次の日には何事も無かったかのように振る舞うこの胸も、布団に潜るころにはまた疼きだして、その疼きに沿って僕はまた順番にナイフを突き立てる。
痛みなしでは生きていけなくなった心は、段々と何にも感動できなくなり、いつか死ぬ。
刹那の快楽に身を任せて、ジリジリと追い詰められていく感覚。
もしくは、とうに崖からは滑り落ちていて、その浮遊感を楽しんでいるのかもしれない。
眼下に広がるのはなんだろう、青い海、暗くて深い谷の底、どこであっても、きっと僕は一人だ。