昇り降りの日々

学務様が見てる

ボンヤリと「感情になりたい」と思うことがある。

自分から溢れる感情を他人にぶつけたい、塞きとめる理性を取り去って全てを世界にばら撒きたい。

何も考えない、そんなことさえ許されないスピードの中で、僕は今全てを放棄して布団の上で時間をインターネットの海に垂れ流している。

他所からやってくる情報をただ脳に入れて、何も残さずにまた流れ出ていく。

自分の中にある感情を外に垂れ流すための実体化段階が僕には難しくて、何もかも放棄してしまう。

幸せを貯める底なしの瓶に、ひたすら幸せを投げ入れている。

今日も今日とて、誰にも理解できないような怪文書をインターネットに流して、一時的な満足感を得る。

恐いことなどなにも無い、最初からあなたには わたししか居ない 。

20190917

今日

前日は課題から逃避して友人と二日間ぶっ続けで遊んで、その後朝の4時くらいに寝た。

 

朝起きてみても課題は何も解決していなくて、返信せずに放置したメールだけが残っていた。

どうしてか、『ごめんなさい、出来ませんでした』と言うのが怖くて、何もかもを後回しにしてしまう。

『出来ない』というのは一つの結果であることは重々理解しているけど、それが許されないような気がしているからかもしれない。

 

何だか起きていると『出来ない』ことの言い訳が出来なくなるような気がして、無理矢理寝ようとしてみたけど、こういうときに限って眠れない。

結局何も考えずにただボーッとして、布団から出たのは起きてから約30分後の、11時半だった。

 

適当に風呂にはいって、洗濯をして、朝御飯を食べて、またぼーっとする。

Twitterも見るし、まとめサイトも見た。

洗濯物が回っている間も、パソコンが開けない。

開くとメールが見えてしまう。

やらない言い訳ができなくなる。

 

でも、今日はどうしても大学に行かなくちゃいけない。

パソコンと書類だけを詰めた、いつもよりも重い気がするリュックを背負って、行きたくない駅へ向かう。

このときばかりは行きの道が下り坂でよかったと思う。

 

大学について、書類を一通り提出する。

事務の人達との雑談も、若干顔がひきつる。

心が重すぎる。

 

居室に戻って、もうこれ以上放置できなくなったパソコンを、意を決して開く。

やっばりメールは変わらずあって、やっばりプログラムは回らない。

僕の嘘で固められたメールのやり取りを上書きするには、モノを完成させるしかないのだ。

そうわかっているのにプログラムが読めない、書けない。

なんでこんなことしてるんだろう、なんで、なんでこんなに物事を放置するんだろう。

やると言ったことを、どうして出来ないんだろう。

溢れるゲージは、同期のいる居室に呻き声として発される。

うぅ、言語をもってしても尚、この感情の発露にこの声が最適であることを認めなくてはいけない。

 

でも、友達の言葉でほんの少し吹っ切れて、ほんの少しだけプログラムを書いた。

活路は一応見えた。

 

でも今日は耐えられない。

スイス生活でお預けだった用心棒を食べて、飯田橋まで歩き、ギンレイホールで映画を見た。

今日の映画は『天国でまた会おう』。

久々に予備知識なく、かつ難しくなく、でもストーリーはしっかりしている作品を見たような気がする。

見たあとの感情は凄くスッキリしていた。

 

明日はどうしよう。

洗濯をして、またプログラムを書かなきゃ。

でも先に病院も行かないと。

 

雨のち時々曇り。

ここから抜け出したいなら、自分の足で歩け。

アイの上澄み

精製された真っ白な砂糖を、毎日小指に少し取って味わっている。

その味は混じりけの無い「甘さ」そのものだ。

だからこそ他の物と混じりあい、新しい味を生む。

でも僕はそうしない。

ただ甘いだけのそれを、毎日毎日、少しずつ少しずつ消費するだけだ。

足りなくなったら金でそれを手に入れて、また少しずつ消費する。

 

商業の無い世の中には、精製された甘さはきっと存在しない。

ただそこに人と人がいるだけの世界では、真っ白なそれに苦汁だって辛酸だってまじる。

とても短い時間スケールを取るなら、精製された甘さに近いものを味わえるかもしれないけど、生憎人間は過去を振り返ることのできる記憶能力があるので、大体それよりも十分長い時間スケールをとる。

 

僕は、愛のうわずみだけを掬って出来たそれだけを意図的に摂取している。

けどその底には、黒く淀んだ泥のようなものが溜まっている。

「人」と向き合うなら、その上澄みも底の泥も飲み干す覚悟がいる。

残念だけど、今の僕にはその覚悟がない。

泥でさえも精製されたものを用意して、たまに怖いもの見たさに口に含んで吐き出す。

 

そろそろ瓶が空になってきた、また買いにいかなきゃ。

雨空に願いを

七夕の星には色々な思い出がある。

いつか誰かと見上げた空を何となく見上げて、天の川があるはずの方角には雨雲しかない。

今となっては方角もわからなくなったので適当な方向を向いてるだけだけど。

 

思えば、僕の人生は常に星に導かれていた気がする。

一番星、オリオン座、南十字、そして夏の大三角

意味もなく海の見えるあの丘に行っては、白鳥座が向かう先に何度も同じ事を唱えていた。

弱々しいアルタイルの光を、何の目印もなしに今の僕は探せない。

それくらいに空を見上げなくなった。

 

雨に濡れて帰る夜の道で、そんなことを思って空を見上げてみた。

そういえば雨の日に空を見上げたことがなかった気がする。

自分の天頂から、放射状に雨が降ることを初めて知った。

イヤホンを外してみると、絶え間なく響くサーっという音に、たまに混じる水滴の落ちる低い音が不規則に響く。

よく耳を澄ましてみるとサーっという高い音にも草葉を弾く音、地面を叩く音、排水溝を流れる水の音が混じっていて面白い。

 

帰り道の最後の坂道で、ひとつだけ枯れずに残っているガクアジサイを見つけた。

茶色く朽ちていく回りの花々のなかで一際映えて、いつかこんな風に自分もいつか花が咲く日を待っている。

待っているだけでは、それはやってこないけど。

 

この雨がやんだら、今夜の一番星がきっと見えたら、その逢瀬が僕にも許されますように。

この七夕を少し過ぎた願いが、きっと叶いませんように。

それでは夢でお会いしましょう、おやすみなさい。

無加工のキモチ

自分の心の底から湧き上がる感情を外部に吐き出す時、普通はそれを適切な形に加工して吐き出す。

適切な形というのは例えば他人への配慮、打算、損得勘定、その他諸々を考慮した形だ。

でもたまに、そういった加工ができない人間がいる。

その中でも「負の感情」を加工なしで撒き散らす人間はよく見るのだが、本当にごく稀に「正の感情」を加工なしで吐き出せる人間がいる。

なんでだろう、彼ら、彼女らには「人にみられている」という意識が働かないだろうか。
「発言の効果を最大化したい」という打算はないのだろうか。

僕は人生で2人だけそういう「加工が下手くそな善人」にあったことがある。
はっきりいってしまえば「バカ」だと思う。
奴らはなんの悪びれもなく、己が心に湧き出す愛を無加工無添加のまま吐き出す。
でもそれが痛いのだ。
自分に向いているものではないけど、それが存在していて他人に届いている、その事実が僕を苦しめる。

人の目が怖いよ、効率よく生きたいよ、人によく思われたいよ、一度でさえも失敗したくないよ、誰にも嫌われたくないよ、そんな気持ちが僕の心と口の間でたくさんのフィルターとして存在していて、最後に口から吐き出される頃にはなんの個性もない、中身の伴わない「言葉のふりをした音」となって出てくる。

本物の言葉を吐けるのはごく限られた人間だけだ。
いつか僕も、そんな単純バカになりたいけど、一生人に怯えながら生きていくような気もする。

君の感情を食べたい

大きな感情に押し流されて、ほんの少しだけ背筋が伸びる。

あと一歩の後押しを、血肉になった感情が手助けしてくれる。

でも今日は大きめの感情を食べ過ぎてしまった。

一杯食べて大きくならなきゃいけないけど、やっぱり食べ過ぎはよくないらしい。

明日に備えて今日はおやすみ、皆勤賞を目指すよ。