昇り降りの日々

学務様が見てる

缶のコカ・コーラ

昔の話

夜風が浴びたくて外に出てきた。

今日はどうやら暖かい日だったようで、半袖にパーカー、半ズボンにサンダルでも全く寒くない。

いつも通りに自販機によって、飲み物を買おうとしたのだが、そこに缶のコーラが売られていることに今日気づいた。

普段買うコーヒーが最下段にあるのでそこしか見なかったせいだと思う。

いや、多分気づいていたのかもしれないけど、今日見たそれは昔の記憶を強烈に思い起こさせたせいで印象に残ったのかもしれない。

 

小学校三年生くらい、親戚の仕事を調べようという夏休みの宿題が出た。

僕は帰省ついでに祖父の仕事を調べることにした。

朝の四時頃だっただろうか、僕は祖父だか父だかに叩き起こされて市場に向かった。

祖父は商店を営んでおり、その仕入れのために週に何度か早朝の市場に通っていた。

当時の僕はどこで何をしているのかわからないまま祖父についていき、陽気なおっちゃんたちにミカンやらサーターアンダギーやらをもらったことだけは覚えている。

そもそも日が昇るよりも早い時間なんて小学生からすれば全く活動時間の範疇にはなく、まともに頭が働かなかったのも無理はないと思う。

だけど全ての仕入れを終えたあとに見た風景は、かなり強く印象に残っている。

日が昇って少し後くらいのころ、祖父が崖の上の展望台につれていってくれた。

目の前に広がる海はあり得ないくらいに水色に光っていて、多分これまで見た風景のなかで一番と言えるくらいに綺麗だった。 

祖父は多分タバコを吸っていて、僕は缶のコカ・コーラを飲んでいたような気がする。

 

気がする、覚えていないというだけではなく、この記憶が全て間違いの可能性があるという意味も含んでいる。

高校に入学した後、祖父がつれてきてくれたであろう崖を何度も何度も訪れているが、水色に光る海なんて一度も見れなかった。

もしかしたら違う場所なのかもしれないが、正直他に見当がつかない。

15年も前のことだからハッキリと覚えていないのは当たり前だが、今日コーラの缶を見て突然思い出した。

僕が当時その海を見たのかは事実かどうかわからないけれど、祖父がいつもコーラをくれたことは多分正しい記憶だ。

特にこれといったオチはないが、もう二度と祖父に会うことができなくなった今、こういう細々とした記憶を何かに書き留めておかないと消えてしまいそうで、もしくは記憶を書き換えてしまいそうで怖い。

 

外に出る

引きこもりには慣れていると思っていたが、『引きこもり』と『引きこもらされる』は違うと最近よく感じる。

学部二年生のころ、多分当時が一番ひどい引きこもり状態だったが、それでも好きなときに人にあえて、好きなときに好きなものを食べて、好きなときに起きて寝ていた。

家にいる、いないを決める権利は僕にあった。

けれど今は違う。

確かに家にいることで色々効率はよくなったが、好きなときに好きなことを出来ないというのはかなり苦しい。

金銭的なもんだいもあるにしろ、やっぱり欲求を好きなタイミングで解放できないのは辛い。

 

冒険

『僕は』なにがしたい?ということを数日ぼんやりと考えていたが、4年前の僕が答えを書き記していた。

まだアカデミアの世界に残りたいという気持ちがあった頃の葛藤を書いた記録に『自分は冒険家ではなく旅人なのだ』と書いてあった。

めちゃくちゃ納得した、確かにそうだったかもしれない、誰かにとっての新しさではなくて、自分にとっての新しさを昔も今も求めている。

仮に自分のことでも、脳みそから掘り出すよりも、記録を漁った方が早い場合もあるらしい。

 

 

ナイフ

なんで僕たちは刃物をちらつかせながらしか会話できないのだろうか。

誰が上とか下とか、そういうのよりも低級な『ちょっと皮肉って自分の優位性をアピールしたい』という下らない感情のせいだと思う。

なにもかもいやになる。

頭ではわかっていても、理性が目を離した隙に口から、指からナイフが飛び出していく。

 

 

よるべ

別にも字を書くからといって無理にノスタルジックになる必要はない。

何もなかったのなら何もなかったとかけばいいし、辛かったなら辛かったと脚色せず書けばいい。

寄る辺ないからこそ、こうやって意味のわからないまま溢れるぼんやりとした『しんどい』に近い気持ちを抱えきれない。そこまで死ぬほど辛いわけではないけれどなにかをする気力を奪うには十分な負の感情。

だらだらと時間が四畳半の薄い布団に溶けていく。

このまま冒険もせずにここに骨まで溶けるかもしれない。

 

食事

食べ物を食べる気が起きない

4月が終わる。
飯を自分で作るようになって1ヶ月以上経った。
真面目に食事作ってたのは5年近く前なので、腕もなければレパートリーもない。
パスタ茹でるか米炊くか、おかずはたまに肉を焼くくらい。
食事の彩がなくて、お腹すいたなぁと思っても食べたいと言う欲求がどんどん消えていく。
まだ奨学金が入らないから贅沢はできないので、コンビニで飯を買うなんてことも頻繁にできない。
いかに普段の食生活が刺激物で占められていたかを実感している。

悪いところだけ目に付く

GWなので積んでるゲームをやっているけど、これダメだなってところだけが目についてしまう。
ここがいいなってとこを見つけられない。
どうしたらいいんだろう。

丘の上のノスタルジア

脳味噌の中で渦巻く濁流の放流。
文の論理は気にしない。
脳が指を動かすままに文字を記録する。

気持ち その1

誰に怒られるわけでもないのに、コソコソと夜に出歩く日々が続いている。
夜に街を歩き回るのも嫌いではないけれど、歩いた場所が線でつながらない感覚があるので適当なタイミングで昼に歩き回りたい気持ちがある。

この前試しに昼間に外出してみたら想像以上に人間が出歩いていて驚いた。
人が溢れるスーパー、サーティーワンに列を成す人たち、なんか僕だけが一人誰もいない家で全てを深刻に受け止めていただけなのかなぁ、と考えてしまう。
状況が変わる前までは「もしかかったら日本中にばら撒いてこの腐った社会変革してやるわw」みたいなよくわからない感情があったけど、いざ自分が困ると「さっさと収束しねぇかなあ」と思っている。
別に社会がどうなろうと困りはしない(と思っているだけで実際はめちゃくちゃ困ると思う)けど、なんか誰かにみられていて、それを咎められそうで身動きが取れない。
自分も石を投げている手前、投げられている側に身を置く度胸がない。
我が身かわいさに立場をコロコロ変える蝙蝠としてずっと生きていきたので、こんな状況になると自分がどの立場にいればいいのかわからなくなって頭が爆発しそうになる。

気持ち その2

これだけ時間が用意されているのに、自分はぼうっと時間を無為に過ごしている。
TwitterYoutube、暇つぶしの道具に暇以外の時間を食われている。
やるべきことはわかっている、明確に区分けして順番を決めてやればいいだけなのにそれが実行できない。
何かに夢中になろうと思ったらできる程度には時間が用意されているのに、その時だけ仕事を持ち出して何もしない。
僕が履けるのは1足の草鞋だけなんだなぁと改めて実感する。
何をやるのか何をやらないのか明確に書き出さないと何もできない。
書き出せばいいだけなのに、なんかダサい気がしてやってない。

気持ち その3

人の作ったものに触れると何かをしたいという気持ちに駆られる。
けれど、誰かが言っていた通り「たまに湧くやる気は、やる気じゃなくて気まぐれ」という言葉が自分にはかなり正しく当てはまる。
やる気のある時に立てた計画は簡単に破綻すると、学部生の頃に嫌なほど学んだ。
やっぱり2で書いた通りに何をやるべきなのかちゃんと書くべきなのかもしれない。
ダサいけど。

気持ち その4

今まで何を娯楽にして生きてきたんだろう、と見つめ直す時期だ。
誰かの中でくすぶる激しい感情を食べること(これは他人のもの)。
瞬間的に爆発するような感情(これは自分のもの)。
場所で感じるノスタルジー(これも自分のもの)。

今日散歩していると、「自分は坂とか階段とか丘が好きだな」と改めて感じた。
なぜか坂に懐かしさを感じる。
特に下り坂が好きだ。大きな高低差のある下り階段が好きだ。
反対側の岸に見える建物のどうしようもない遠さとか、階段の下が見えない状態で「ここを降りた先にあるものはなんなんだろう」というワクワク感とかもあるんだけど、それだけではない気がする。
言葉では説明できない何か、もうノスタルジーとしか呼ぶしかないのだと思う。
僕はことあるごとに、人生の何か節目ごとに高いところから遠くを見ていた気がする。
沖縄でも、福岡でも、高いところが好きだった。
高いところというよりも、そこから見える遠くのものとか、ただ平に広がる風景とか、そういうものかもしれない。
自分もどこかに飛んでいけるような気がするんだろうか。

『自分は』何がしたい?

なんだかここ数年、自分は何がしたいんだ?という自問自答を繰り返していたような気がする。
その先に得られる結論は、僕の選んだ道を肯定するような、自分のうっすらと考えていた夢を肯定するような「何かを作りたい、何かを人に与えたい」という欲求がそれぞれ別の形になったものだと思う。
けれど結局それって「誰か」がいないと成り立たない。
誰かに認めてもらいたい、誰かが僕の感情を元に作ったものを肯定する、そうやって相対的に自分を評価しないと自分そのものに価値が見出せないだけなのではないだろうか。
自分は何がしたい?僕を評価する人間の存在が薄くなってしまった今の世で、少しずつアイデンティティを支える物が消えていく。
僕は何がしたい?違うな、僕はどうしたい?ニュアンスの方はこっちの方が近いかもしれない。
それがただ床に寝転がって、好きな音楽を聴きながら目を瞑るでもいいし、好きな場所で好きな景色を見るだけでもいいかもしれない。
上昇志向の渦に飲み込まれてはいけない。
けれど「誰か」を評価軸に置いている僕も救ってあげなきゃいけない。
交互に顔を出す感情の一部分を、どうやってハンドリングすればいいんだろう。

君の感情になりたい

湧き上がるような物ではなく、内側の内圧を時間と共に少しずつ高めていくような、ぐつぐつと粘度の高い液体がその壁を吹き飛ばして辺りをその色で一面染めてしまうような感情の流れを食べて生きている。
自分の心を裏側を爪で思いっきり引っ掻きたいような気持ちを感じた時にそういったこと感情を食べたくなる。
人に対して燃え上がるような正の感情を抱くことはもう長いことないけれど、やっぱり脳味噌はそういったある意味麻薬のような短期的に爆発するような、たくさんの処理し切れないほどの情報の渦に溺れる感覚を求めている。
論理的に言葉で解決できるものなんて、高々一度人間の脳と思考で整形されたものにすぎなくて、ハイレゾなものを感じるにはそれを己が身に宿すしかない。
だから僕は毎日のように「君の感情になりたい」と言う。
それも敵わないけれど、少しずつ解像度を高めて、その感情に本当はあるはずだった鋭いピークや、恐ろしく平坦なペデスタルのさらに底にあるヘドロを感じられるようになりたい。

文字にすること

Twitterがやめられないのは、頭から溢れるものをどこかに放流しないと「もったいない」と感じるからだと思う。
思いついた素晴らしいアイディア、ふと湧いたよくわからない感情、これをどこかに記録しておかないと無かったことになりそうで怖い、という恐怖も若干ある。
上記をまとめると「強迫観念」っていうのかもしれない。

中学生の頃、日々起きたことを全てメモ帳に記録していた時期があった。
部活中に同級生に「新聞記者かよ、気持ち悪い」と言われて一年くらいでやめてしまったが、確かに当時も強迫観念のような物が最後の方にはあった気がする。

今もこうやって文字を書いてるけど、これはあんまり何かに駆られてる感じはしない。
腰を据えて一気に1000文字以上の文字を書くって結構書き始めるまでにエンジンかけるのが面倒だし。
でも書き始めると堰が切れたように書きたいことが溢れてきて止まらなくなるのと同時に、「自分てこんなに複数のことを一気に考えようとしていたのか」という気づきがかなりある。
Twitterだと思考がスパゲティーのまんまで状況は改善しないどころか、普通の人たちは忘れてしまうような一時的な感情も全部記録した上で一貫性を保とうとするから余計絡まってしまう。

できるだけ毎日記録をこうやって書くべきなんだろうけど、『記録を書くこと』イコール『自分のしたことを書く』という認識が今の今まであったのでなかなかこうやって思うようにだらだらと文を書くことが無かった。
実際そうやって書いた文章って後から読み返しても面白くない。
当時は感情が波立っていなかったということもあると思う、そもそも感情が荒ぶってないとこんなふうに文字が溢れてくることないもんな。
でも一本糸をスルスルっと抜くと突然何かが溢れてくることがある、それこそ今みたいに。
別に今日は何か書かなきゃという強迫観念じみたものは無かったのにこうやって3000文字に届きそうなほど文字を書いている。
自分で「今自分の気持ちが波立っている」と気づけるくらいの時はもう既に大荒れの時で、今の僕みたいに自分の気づかないところで何かが溢れ出していたなんてことも結構あるのかもしれない。
いざ書いて何も出てこなかったら、それはそれでよしとして、今日みたいに「自分では気づかなかったけど感情が渦巻いていた」という瞬間を積極的に探すべきなのかもしれない。
半年くらい前に「面白い文を書くには感情を揺らすしかない」とか書いた気がするけど、自分で気づく感情の揺らぎだと毎回同じ話題や同じ悩みしか書かない。
当時はかなり大発見したような気がしていたけど、今思うとちょっとアホらしい。

やっぱり僕はこうやって文字を書かないと何も解決できない。

俺の心臓の裏側を見てくれ

僕の心の裏側には何が書いてあるのか、心は僕の体の中にあって、取り外せないものだから見ることができない。
なら対話を続けてその裏側に書いてあることの輪郭を掴むしかない。

衝動

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僕だって悲しくなったり、切なくなったり、ため息吐いたり、惨めになったり、いつかは失う命を思ったりする。
でも息をするしかない、こうやって何もかもが白日の元に晒せたら、心臓を切り出して日の元に差し出せたなら、と思うけど進むしかない。

高校生ごろの僕は、何もできない人間だったと思う。
何も無かったと思う。
何でも無かったと思う。
なんでこんなことになっているんだろう、自分でもよくわからないけど、少なくとも自分はここまでくるのにたくさんの人に引き上げられて、しがみついて、蹴落としたらここにいた。
怒りでもなく、ノスタルジーでもなく、感謝をそこに見出せるようになりたい。

終わり

久々にぐわーっと文字を書いてすっきりした。
マックの浅いキーボードを思いっきりバチバチと叩くの、結構好きかもしれない。外とか人前では絶対こんな叩き方できないけど。
結局脳みそとか心整理するには僕は文字をこうやって長々と書くのがいいのかもしれない。
明日コミケに出すはずだった本かこうかな。そんなやる気あるかな。
ブログくらいは書いてもいいかもしれない。
今までフォーマット気にしすぎてた。
溢れるものをさっさと載せてしまおう。
今日はおやすみ。

i/o

この時世、僕の「享受するはずだった時間」はほぼ全てが消えて、アルバイトもなくなり、なんだか宙ぶらりんな感じになっている。

 

普段あれだけ「時間があったらxxをいっぱいするのに」と考えているけど、いざそんな時間が来たら「これを先にやらなきゃいけないし……」となにかに追われる感情と「面倒なことはやりたくない」という感情が最悪な混じり方をして、なにもしないまま一日を終える日がある。

結局時間とかの境界線がはっきりとない状態で「なにしてもいい時間」が一日のスケジュールを占めているからこんなことになる。

多分「仕事する時間」「インプットする時間」「なにしてもいい時間」をちゃんと分けてつくるべきで、今はその「なにしてもいい時間」を広くとれる時期なんだと思う。

そしてそれを自分で管理しなきゃいけない。

せっかく緩めのラボにいるんだし、「なにしてもいい時間」をそれ全てに割こうとしてすべてを失うのは本末転倒過ぎる。

取り敢えず月曜から上手くやってみよう。

 

苦しみの伴うインプットと、自分の楽しみや精神安定のためのインプットは明らかに別なので、そこもちゃんと分けて前者もやっていかないといけない。

 

僕がどこ目指してるかも考えないとなぁ、なにかに感銘を受けたときに「僕じゃ誰も一緒にやってくれない」と人望のなさを毎度のように嘆いているけど結局二人目の人間を見つけられてないだけというか、人間を普段怖がりすぎてるだけ。

 

 

とはいえこういうメンタルが調子いいときに立てた計画って上手くいかないんだよなぁ。

どうしたらいいんだ。

とりあえず4月は

「苦しみの伴うインプット」は漫画、

「なにしてもいい時間」はお絵描きメインで。

雑に日記も書こうかなぁ。

乾く

空が白む時間、そのちょっと先。

窓の外から、駐車場の車のエンジン音が聞こえる。

瞬きする度に張り付くような乾いた眼球で、今日も夜を越えてしまったことを確認する。

光る画面に表示された数字は、既に6時を過ぎたところだった。

夏休みの最終日でもなければ、留年をかけた考査の当日でもない。

何の目的意識もなくただ、だらだらと布団の中で一人の時間を過ごしている。

こんな堕落した大学生活を送るはずじゃなかったのになぁ、といつも通りの後悔をリピートする。

今日も何の予定もない、このまま自然に眠れるまで起きていようか、それとも無理矢理にでも目を閉じておけば眠れるだろうか。

毎朝、問いも答えもない問答を繰り返す。

そんな一人だけの試合に、ゲームセットの合図が鳴る。


『おはよう』

『もう起きてる?』


すかさず返信する。


『今日もダメだった』

『おやすみ』


その返信を確認して、スマホを置く。

 

『(笑)』

『いい夢見てね』

『おやすみ』

 

眠らない体を願った夜は幾度あれども、夢想の世界の希望は捨てられない。
今日もいい夢が、君の夢が見れますように、そう願って静かに目を閉じた。

正解を探して

今の環境はかなり美味しい話が降ってくる。
僕の憧れる場所の偉い人の話、就活に合わせて大学名に誘われていろんな話が舞い込んでくる。

面倒なので一通りそういう話は無視していたのだけど、身の丈に合わないとはいえ肩書きは利用した方がいいな、と思い直して色々見てみた。
すると非公開ではあるけど僕が昔いきたかった場所の話を聴ける機会があったらしい。
その日は僕は出張に行っていたのでどちらにしろ参加できなかったのだけど、ものすごく悔しくなった。

すでに就職先は決まっているので別にそんな話聞く必要ないのだが、今日一日中ずっと後悔していた。
話そのものには多分興味がない。
けどその話をその人から聞いた、もしくは内部の情報を知っているという状態に自分をおきたいのだと思う。
情報を握っている、何かしらの正解を知っている、その正解に従って行動したい、誰かより優位に立ちたい、そういう欲求がある。

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I love you のその先で

愛が足りてない。
絶望的に足りていない。
愛が形を変えたものが紙に巻かれていたり缶の中に詰まっていたりするけれど、こんな海外の片田舎でそんなものは手に入らない。

一日中部屋で作業をしながら悲しくなってしまった。
別にこれは僕の成したいことではなくて、なのに約束をした未来のために走ってる。
その未来もきっと、3年も持たずに壊れる。

でもこの瞬間を紡がなきゃ、僕の社会での道はボロボロと崩れていく。
こんな僕でもコミュニティの中で生きていけるように先人たちが用意してくれたレールの上を、僕はゆっくりと前に進んでいる。
常日頃から幸せを感じていたいわけじゃない。
けれど、何年も前の、おそらく中学生の頃から感じていた、「心臓の裏を掻きむしりたくなるような愛」が足りなくなる感覚がたまにフラッシュバックする。
何に憧れてそうなったのか、何もかもが理想的に進む頭の中で生きてきた僕は、世界のどこかにそれが隠されているとまだ信じている。
だから僕は文字を書く。
書いて、世にばら撒く前にデータの形を失って消える。

愛が足りない、喉の奥が音を立てて空気を渇望する、少しずつ足の表の方から血が抜けていくような感覚が、僕の体の睡眠不足を伝えている。
帰ってきた、ここは僕のいたい地獄、幸せな地獄、ナイフで少しずつ心の形を削り取って、そこに少し塩でも塗って、軽くて曖昧な痛みを楽しんでいる。
ちょろい僕の心、スイッチを押せば簡単に首をかきむしれる。
痛みを感じずに肋骨の真ん中から切り開けたら、この心臓を雨に晒して、その脈を感じられるのに、なあ。

僕が欲しい愛は「僕とあなた」の愛ではなくて、「あなたと誰か」の愛なんだよ、だから絶対に手に入らない、だってそこに僕が入る余地はないから、紙の上で繰り広げられるそれをずっと眺めている。
さあ行け、そこに僕はいないけど。僕の生きる現世に、君たちはいないけど。
けど僕が10年も前にノートの切れ端に書いたあのお話に、それはまだ存在している。
世界に存在しないものを、僕は一生かけて取り戻す。
仮に現世にそれがないなら、命を差し出せば手に入るなら、いくらでも差し出す。
いつかその器に僕の心が収まる日を夢見て、茶色い箱の幸せを肺に収める。
少しでも心に近い部分から流れてくる物質を、脳が喜んで貪っている。