昇り降りの日々

学務様が見てる

文章を書くということ、思い出の話

ここ一月ほど記事の更新をしていなかった。僕は今所属している大学院をやめる決意を完全に固め、新しく他の大学院に入るための勉強をしている最中だ。

とはいえ、ずっと勉強ばかりしていると疲れてくるし、どうしても頭が熱くなってくるので息抜きをする。昨日の僕は、息抜きとして自分が中学生時代に書いていたブログを覗いた。なんてことはない、今と同じように語彙力のない、短い短文を並べただけの雑な記事が量産されていた。

 

・思い出話

中学生時代に書いていたブログは、携帯電話を持てない僕達のコミュニケーションツールでもあった。親の目を盗んでパソコンから書いたり、PSPのブラウザ機能で書き込んだり、僕らなりに交流の方法を模索した結果たどり着いた境地だった。ネットリテラシーもそんなになかったので、知らない人間にやり取りを見られているという自覚もなく、学校で日々起きていることや思ったこと、学校への不平不満、もしくは自分の作品や哲学をありのままにさらけ出す場だった。最初は中学校の友達の限られた数人で友達登録をしているにとどまっていたが、最終的には10人少しの人間と繋がり、記事を書いては学校でそのことについて話しては、またそのことを記事に書くことの繰り返しをしていた。学校外の人とも繋がりを持つようにもなっていた。すごく狭い世界だったけれど、それぞれの個性や頭の中を覗いているようで本当に楽しかった。

しかしブログを初めて数年、自分に長文を書く力も気力もないことに気づいた僕は、ブログから少しずつ離れ、Twitterの世界で生きるようになった。思えばあの頃(2009年頃)はTwitterが国内でもそれなりに定着していた時期で、友人たちも半分ほどの人はTwitterに移り住んだ。しかし彼らの殆どは高校に進学するタイミングで新しい世界に旅立っていった。

そうは言いつつも僕は数ヶ月に一度はブログを更新していた。やがて高校二年生になった時期だっただろうか、リアルの生活がそれなりに充実し始め、僕もブログから完全に離れてしまった。

 

それから長い年月が経ち、大学3年生になった僕は先輩たちがやっていたブログを読むうちに、「自分も記事を書きたい」という欲求が抑えられなくなり、このブログを始めた。およそ二年前の話である。下の記事にあるように、ちょうどTwitterなどの何かしらとコミュニケーションをするツールが嫌になっていた時期でもあった。

ladder-frck.hatenablog.com

 

結局Twitter中心の生活に戻り、昔みたいに「これぞブログ」という長めの記事を書くことも少なくなっている。昨日僕が中学生時代のブログを覗いたのは、ブログしか知らなかったあの頃の自分たちはどんなことを綴っていたのかがどうしようもなく知りたかったからだ。その一環で、かつて友人たちが綴っていたブログも覗いてみた。殆どが高校進学のタイミングで更新が止まっていたり、ブログやアカウントそのものが消えているものがほとんどだった。その中で一つ、たった一つだけ、記事一覧に「NEW!!」の文字が光るブログが有った。恐る恐るそれをクリックすると、僕達が打ち捨てた誰もいない広場の中で、彼だけが日々を綴り続けていた。しかもその記事はちょうど数時間前に更新されていた。数ヶ月に一度しか更新していないみたいだったので、余計に運命(?)みたいなものを感じてしまった。

彼は今の僕と同じように、「どうしてブログを始めたのか、何故記事を書き続けるのか」について書いていた。はてブロのようなスタイリッシュさもない、あの頃と同じ書体のままの長い長い文だった。僕は彼の書く気だるげな、感情をさらけ出している記事が好きだった。もしくは、正確には憧れていたのかもしれない。実際こうやって影響を受けて長々と昔みたいに記事を書いている。

 

・どうして僕らはブログを書くのか

僕は冒頭で、中学生の頃のブログを書くモチベーションは「交流のため」と書いた。しかし本当にそうだったのだろうか。辛いことが多かった中学時代、あの頃の僕は自分がどんな形をしていたかを書き留めることで、何かを得ようとしていたのかもしれない。それは自己顕示欲を満たす何かだったかもしれないし、存在証明だったのかもしれない。

”今日の僕の気持ちを、明日の僕はわかってくれない” ということをこの数年で痛いほど感じた。僕の心を成すものは少しずつ、ときには大きく入れ替わっていて、早ければ次の瞬間には別人になってしまっている。でも、別人になってもかつての自分だった頃の残骸は同じ器に保存されている。人間は完璧ではないので(もしくは完璧であるがゆえに)物事を簡単に忘れてしまう。あの時感じたはずの甘酸っぱい気持ち、苛立ち、名前のない感情、そのときに強く感じたものでさえ、なかったことになってしまうのだ。事実、僕は中学時代に書いたブログに書かれている「問題児」が誰なのか全く思い出せないし、初めての席替えで○○と前後の席になったことも覚えていない。ブログに書くくらいには大事件だったはずなのに。しかしそれでも、あの時の僕が感じていたこと、見ていたものを「知る」ことはできる。

中学、高校、大学生活を終えて、それを振り返ることが多くなってきた。きっとこの先の未来が真っ暗で、でも平坦に見えるからなのだと思う。真っ暗な未来を見るよりも、かつてあったことを振り返るほうが簡単だ。

もしくは、良くも悪くも毎日が大荒れで、色々な感情を学んだ時代を羨ましく思っているのだろうか。

何であれ、僕たちは誰か(それは主に自分であることが多い)に僕達のことを知ってもらうためにこうやって日記を綴るのかもしれない。

 

 

・オチ

体感時間で言うと、人生の半分は20歳に終わってしまうという話を聞いたことがある。その話が本当なのかどうかは知らないが、少なくとも僕は高校時代の3年間のほうが、大学生活の4年間よりも長かったように感じる。これを根拠に(いくらなんでも弱すぎるけど)言説を信じるなら、もしかしたら僕はもう死に支度を始めているのかもしれない。過去に起きたことを整理して精算し、良いものだけを残して、いつでもそれに手軽にひたれるようになって来ているのだ。もし自分の記憶だけに頼っていたら、そうやって都合のいい気持ちだけ残ってしまう気がしてしまう。

僕は、できるだけ色々な気持ちを残しておきたい。きっと誰に発掘されるわけでもない人生なのかもしれない、けど、せめて自分だけはその価値を認めてやりたいと思っている。今はこうやって前向きな気持ちで文を綴っているけど、明日の僕には人生に絶望してすべてをやめてしまうかもしれない。まあそれはそれでいいと思う、けどその時の僕にもぜひ文章を書いてほしい。

一ヶ月に一度は、こうやって自分の心を自分自身で覗いてみて、長々と記事を書いてみるのもいいかもしれない。今僕が感じていることを明日の僕に理解してもらえなくても、今の僕のことを知ってくれるかもしれない。もしくは、「今」のことが懐かしくなったときに、感じたことを思い出せるのかもしれない。

 

歌にすれば忘れないでおけるだろうか

たった今好きになったことを

www.youtube.com

 

この前見た映画*1のEDで流れていた歌だ。僕は歌を書けないから、こうやってブログを書くのだと思う。

 

*1:リズと青い鳥。まだやってたら見てください。