昇り降りの日々

学務様が見てる

文化と生産者と僕

文化と僕

我が家には文化がなかった。もしくは僕には文化に触れる機会が与えられていなかった。

部屋には漫画も小説もなかった。少なくとも両親は僕の前で読むことは無かった。

テレビも厳しく制限されていた。21時以降のテレビは見てはいけなかった。教育に悪いという理由でギャグアニメやグロテスク、性的な表現が少しでもあるものは見せてもらえなかった。クレヨンしんちゃんやワンピースでさえも見ていなかった。

映画を見に行く文化もなかった。新しいCDを買うこともなかった。みんなで歌を歌ったり楽器を弾いたりすることも少なかった。

ゲームは1日30分、持ち出し禁止、新しいソフトは買わない。

など、あげればきりがないくらいある*1

 

 

「教育を考えれば普通では?」と言われるかもしれない、しかしここで問題なのは「文化に触れられない」ことではなく「文化を共有できない」ことだった。

みんなが見ているテレビの話題がわからない。みんながやっているゲームで一人負けする。そうやって少しずつ「社会性」の成長が周りよりも遅くなっていったと思う。

ぱっと見の教育としてはよかったかもしれないが、僕はそれに強いストレスを感じていたので、ずるくそれを手に入れるようになったし、平気で嘘をつくようになった。僕は人と何かを共有し認めてもらいたかった。その「人」はその頃の僕にとって「社会」の全てで、そんな思いを抱えたまま成長した結果、「社会に認めてもらいたい」という気持ちに成長していったのだと思う。

 

 

生産者と僕

僕が常々「生産者になりたい」と口にしている。けどそれって「自己表現がしたい」「自分を認めてもらいたい、もしくは仲間に入れてほしい」という気持ち、そして文化に触れられず抑圧されていたころ感じていた文化へのあこがれがが混ざり合って、一言で都合よく表現できるのが「生産者になりたい」という言葉だったのだ。

実際僕は今文化に触れたいがために東京を目指している。

 

一日に50回は「生産者になりたい」と思っている。けどそれは早熟な、幼いころから文化に触れられたネイティブに勝たないと僕が言うところの「生産者」にはなれない。

最近生産者になることをあきらめて、生産者を飼う人間になる方向に気持ちがシフトしている。少しずつ「自分が認めてもらいたい」という感情を諦められるようになってきたのだろうか。

多分そんなことは無い気がする、あきらめたというよりもうまく付き合っていく方法を模索しているのかもしれない。

 

関係ない余談

noteを始めました、まだ投稿してないけど。ブログよりもライトに、けどTwitterよりもしっかり、頻度高く書ける場所が欲しかったので、noteでできるだけ毎日の感情の記録をしたいと思っている…が、続くのだろうか。

とりあえず推敲をせずにがーっと書くようにしよう。

note.mu

*1:親の名誉を守るために言っておくが、一応中学生くらいからはテレビが自由に見れるようになった。いかにも教育によさそうなキャンプや科学未来館にはよく連れて行ってもらった。