昇り降りの日々

学務様が見てる

煙灰

誰もいなくなった部屋で、貴重な土日を引きこもったまま終えようとしていた。
金曜日は飲みに出て、気がついたら部屋のベッドで寝ていて、そのまま必要最低限の活動をベッドの中でし続けた結果だ。
インスタを見て、Youtubeを見て、Twitterを見て、を繰り返していると1日なんてあっという間に無くなってしまう。大半はYoutubeだけど。
このままじゃいけない、と思った20回目くらい、やっとお風呂に入って、その勢いで普段着を着て外に出る決心を固める。
着替えた後もまた布団の上でうだうだとして、結局家から出たのは決意を固めてから2時間後のことだった。

外はもうとっくに暗くて、寒くて、ようやく固めた決意がまた揺らぎそうになる。
ワンルームの引力を振り切って、まずは第一チェックポイントのコンビニへ向かう。
鼻の奥が凍りつく感覚に耐えながら歩いていると、嗅ぎ慣れた煙の匂いがした。
心臓が不自然なリズムを刻む。もしかしたら何かの気まぐれで彼女がここにいるんじゃないか、そんな思いが足を反対方向に向けようとする。
煙の主を確認しないまま、視界を避けるように不自然な経路を歩いたり止まったりする。
頭の中のシミュレーションは既に主が彼女であることを前提に進められている。
何事もなかったかのように話しかけるか、それとも彼女は気分が変わって私たちの部屋に帰ってくるつもりかもしれない、見なかったふりをして部屋に戻るのが得策ではないのか、とか。
コンビニの影で息を整えながら、体感2時間の脳内大会議は結論を出す。
当たって砕けろ、プランAだ。意を決して表側へえいやと体を投げる。
緊張で絞られた視界の隅に人影を確認しながら、話しかけるタイミングを伺う。
瞬間、大きな包丁でドスンと心臓を下から突き上げられたような鈍い痛みが走る。
煙の主は彼女ではなく、仕事帰りのおっさんだった。
不要な妄想で精神をすり減らしている自分がアホらしくて、惨めで、笑う元気さえ出てこない。
ああ、私はまだ彼女が帰ってくるなんて未練たらしい考えを捨てられない。
今までの挙動不審な行動が彼女に見られていたんじゃないか、そんなありえない被害妄想が頭を支配して、足が全直で部屋へと駆ける。
走る間、その被害妄想さえも、彼女が私をどこかで見ているという未練から生まれるものだと気づいて、視界が、気道が一層狭くなる。
早く部屋にたどり着きたい一心で足は周り、肺は空気を欲し、狭い気道を冬の空気が凍らせて、溺れまいと暴れて余計に事態が悪化していく。

靴のまま勢いよく部屋に飛び込み、ベッドと机の間に全身で勢いよく着地する。
床に頭を打ち付けた衝撃の中で、そういえば鍵を閉めずに出て行ったんだな、と冷静な自分が考えている。
どうやら脳に再び酸素が流れ始めているらしかった。
荒い息のままベッドの下に目を向けると、見覚えのある水色の箱が落ちている。
背中で地面を這いながらそれに手を伸ばすと、例の煙草の箱だった。
箱を開けると、葉の落ちた煙草が一本とライター。
寝転がったまま最後の一本をくわえて、火を付ける。
荒い息のまま吸い込むと、肺に異物が入る感覚でむせかえってしまった。
コンビニで嗅いだ匂いに似ているけど何か足りないような気がする。
冬の匂い、そうだ、彼女はいつもベランダで煙草を吸っていた。
立ち上がる元気もないまま窓を開けようとしたがうまくいかず、灰が落ちてカーペットに穴が空いた。
不完全な彼女の残り香が部屋に、指にこびりついた。