昇り降りの日々

学務様が見てる

好き/好き

今日書いた話

自分の好きに真摯でありたい。 好きを守っていたいい、その中では誰かに迎合して駆け足したり回り道したり寄り道したりせず、ただ一直線にそれを追っていたい、そこだけは誰にも汚されてはいけない。
新しいことを知ることは「好き」を広げる行為であるべきで、知識至上主義の世界で上位に立つための作業ではない、最近の自分はそれを忘れている気がする。

オタクの世界では(自分の身の回りだけかもしれないけど)誰かより優位でありたい、自分か相手より強くありたいという欲求が表に出過ぎている気がする。
類は友を呼ぶと言われたらそれまでだけど、

ナナシスは久しぶりにそういった知識至上主義から切り離された文脈で純粋に曲をたのしめていたけど、他人と何かを共有するたびに「ストーリーを知らないからあいつはダメ」「100%しらないからその感想は浅い」みたいなことを感じたり言われたり、そういう知識マウントの中にいたことに気付いて嫌になってしまう、好きを好きでいたい。

君の葬式

もう生き返らない明確な終わりという一点に感情を集めることで全てを精算してこそ綺麗な葬式ができて大きな墓が建つわけで、そこから生き返られる(もしくは死んだのに歩き続けられる)と興醒めするというか、なんか嫌だ。
少なくとも歩みを続けるなら全く別の文脈で歩まないといけなくて(さっき挙げたバンドはそうしてる)、同じ流れの上に乗せるのはマジで違うと思う、受け手にとって彼女らは生きてるか死んでるかという判断が違うのが問題だけど。
僕の中で彼女らは死んだ、死に伏線はない。
だからこそその終わりをどう飾るか、どう全員ののかに残る感情を爆発させるのかってすごく大事だ。
葬式をしてもらえず亡霊として歩み続けている人たちがたくさんいる。
二度と本物の終わりがこないということはとても悲しいことだ、だからこそ僕たちは彼女らを自分の中でだけでも殺さなきゃいけない。