昇り降りの日々

学務様が見てる

好き 嫌い 好きじゃない

「好きを仕事にしてはいけない」という話をよく聞く。

ただ最近、自分では「好きにムラがあるものを仕事にしようとすると辛くなる」のではないかなぁと思い始めた。

例えば僕が好きなゲームの運営になれたとして、そこには僕にとって『特別に好き』なキャラクターが存在する。

だけどユーザーの手前、それをひいきすることはできない。

特別に好きなものを一番近くでぶら下げられてる状態で、自分はそれ以外のことを仕事として楽しめるだろうか、多分できない。

「好きを仕事にしてはいけない」が指しているのは、『自分が好きといっているものが包括的な概念なのか、それとも部分的なひとつにしか過ぎないのかを認識してないままだと辛い目に遭う』ってことなんだと思う。

 

別に仕事に限らず、趣味でも「◯◯が好きなんだ」という話題に対して、それぞれがそのコンテンツの箱自体を好きなのか、それとも部分的なものが好きなのかは見極めなければいけない。

知識量至上主義のオタク世界のなかで、偉いのは前者の『好き』の在り方であるから、どうしてもそちらにみんな話を合わせていこうとしてしまう。

結果的に、『部分的な好き』の伝聞の集合体を自分のなかに作ることになり、それを作るために権威の『好き』を取り入れることに労力を割くようになってしまう。

自分の身の回りに見える最近の流行りものは大体そんな感じだ。

出来るだけ大きな『身内』の集合体を作るには『包括的な好き』を持つものによって指導され、部分的な好きしか持ち合わせていないながらも大きな集合体に所属したいという人間がその中の共通規範としての包括的な好きを学び、それを経典としてキャッチアップし続ける。

一見多様性をもったように見える集団でも、結局その指導者につき従っているだけだ。

 

好きに真摯であるとはどういうことだろう。

きっとそれは自分の好きを見定めて権威の侵略を許さないことだと今の僕は思う。

 

好きを共感するとはどういうことだろう。

きっとそれは互いの好きが同調するところを探すことよりも、相手が向き合った好きを尊重してその熱意に触れることじゃないかと今の僕は思う。