昇り降りの日々

学務様が見てる

作る

何もしなかった

今日の午前中に大神をやって、午後はYoutube見てたら1日が終わってしまった。
プログラムは二行くらい書いた。

作る

作る人の凄さをずっと感じている。
同じ話を書いた人、同じ表現をした人、その称賛が欲しかったわけではないけれど、やっぱり羨ましいとは思う。
自分の表現力のなさ、出力スピード、量、度胸、その他もろもろがないことを十分に理解している。
自分の歩みを止める理由はないけれど、歩んでいることを誰かに知られたくはない。
知られたくないけど自分の作ったものは知ってもらいたい、あわよくば称賛が欲しい。
自分の心を開くために、自分の皮を開示することに等しいその行動を、勇気一つで突破できるほど僕の経験は深くない。
だからと言って見えないところで歩かなくても良いことにはならない。
無垢にそれを公開できる人間が羨ましい、自分の皮を着飾ってなければ僕は自分を自分ということができない。
かと言って常日頃から着飾る力もない。
無力、無力、無力、ナチュラルにそれをできる人間がいるなら、自分はそれになれるように『努力』をしなければいけないのに、自分は布団の上で惰眠を貪るでもなく、画面の中から与えられる情報を流し込んで脳を動かすフリをしている。
起きている時間の全てを自慰行為に費やすような、そんな虚しさを毎日のように味わって、誰からも見られない締め切った部屋で、ギリギリになって追い詰めてくるタスクに怯えている。
そんな中でやりたいことを、なりたい自分を追い求めることができるはずがない。
動かすしかない、その仕組みを自分の中に作るしかない、自分の望みをかなえるために、自分じゃない自分でいなければいけない。

全てを受け入れるということ

少し前に自分の性格の悪さをカバーするために全てを無批判に受け入れるようなことをしていて気持ちが悪いということを書いた気がするが、最近そうではなく「自分が外部から何かを受け入れて咀嚼するとき、自分の中にある既存の価値観と比較することをやめるべきなんだ」と気づいた。
今はまだ自分の中にインストールされている価値観が時代にある程度促しているからいいものの、偏食の自分がこれからあらゆるものを食べて思考を先鋭化させていくことがわかっているので、そう言った自分を是として『判断』をすること自体が間違っているのだと思う。
咀嚼とは自分のフィルターを通した解釈のことではなくて、要素を分解してその中にある必要量の構造から情報を抜き取る作業だ。

バイブル