昇り降りの日々

学務様が見てる

燃える

心が体を支配するあの感覚が、多分学部4年生の頃に消えた。

頭で後先を考えて行動することってその時までなくて、外から見える景色から一切情報を受け取っていなかったように思う。

周りを見て自分をコントロールする術を、早い人間は小学生くらいには身につけて、その能力を使いこなせるようになったらそれを越えた範囲のものが見えるようになっている。

僕はまだ自分の外にも世界があることを知ってようやく数年たった赤ちゃんみたいなものだ。気がついたら周りの人間は世界のように振る舞うよう教育が終わっていて、自分がそこでどうやって生きていくのか、という感覚をつかむ上での十分な賢さを持っている。

僕はというと、身を焦がすような心の不安定さを感じなくなる程度には賢くなってしまったし、いつかそういう感情が返ってくるんじゃないかと信じるくらいにはバカだ。

そんなものないよ、と、この場所を通りすぎた人達は笑っている。

衝動に駆られて飛び出したあの雨の日も、意味もわからずに芝に寝転んだあの夜も、もう取り戻せない。

知らなかったから、コントロールできなかったからこその全力さを、今の僕は持ち合わせていない。

例えば僕がこの先誰かを好きになったとしても、初めてその気持ちを感じたときのようながむしゃらで頓珍漢な行動は取らないと思う。

きっとそこに至る前に身を引くだろう。

幽霊を信じるか信じないかではなく、いるかいないかを僕は知っている。

知っていることで、僕の世界は相対的に小さくなっていく。

賢さを得たあとに振り返ると、感情に任せて突っ走った日々はただの黒歴史だ。

だけどそうだと気づかずにただ走り続けるか、もしくはもっと先の賢さへ至れたら、こんな昔のことなんてどうでもよくなれるはずだ。

何かが好きだと、そんな陳腐な言葉で表すだけでは解決できない大きな気持ちを、やりたいと思う熱意を、知を持ったままで無知でありたいという気持ちをもっている時点でこれは解決ができない。

 

何度も何度も同じ場所にナイフを突き立てて、まだその場所に痛覚があることを確かめている。中学生の頃から続けてもなお、その場所への自傷がやめられない、自分が可哀想で、可哀想な自分がかわいくてやめられない。

もっと苦しんでいたい、ささくれを引き抜くような鈍い痛みを悦んで、そのあとにたまる膿に純粋な苦痛を味わわされる。

一晩寝れば忘れてしまう簡単な痛みで酔えるからこそ、こうやって真っ暗な布団のなかで画面を叩くだけでオナニーが終わる。

このままいつも通りに眠って、記録に残しさえしなければ今の気持ちも棺桶に入るまで永遠に思い出さないまま気持ちよく生きていけるんだろう。

僕は本気で何かを欲しがってる訳じゃない。

苦しみの無い自傷を、死なずに語れる死を、都合のいい相手にだけ見せるこの言葉を、右手でシコる何分かのように適当に消費することに楽しさを覚えているんだ。

 

あのブドウは酸っぱいと、指をさせる果実があるだけまだいいんじゃないだろうか。

部屋にへばりついた自分の匂いに気づかないくらいに、この部屋以外の世界のことを知らないで生きている。