昇り降りの日々

学務様が見てる

241027+1

もう習慣から消えている。

悪意に触れたくない

全く意識せずとも、人間の悪意に触れてしまう瞬間がある。
その周りに渦巻く感情が自分の中に流れ込んできて、考えたくないのにずっとそのことばかり考えてしまう。
自分だったら首を括ってこいつにやり返してやろうとか、諸悪の根源に悪意を反転させるにはどうしたらいいのかとか、どうしたらこいつにターゲットマークが付けられるのかとか、そんな思考に支配されて、気が付いたら30分視界から現実の景色が消えている。
サイトをブロックしたりして可能な限りそういったものがふいに目に入らないようにしているが、自分の性格の悪さもあり、油断するとそういったものを探しに行ってしまう。
妄想の気持ちよさ、仮想的に「絶対悪」を殴る気持ちよさ、他人を小ばかにしたい・見下したいという感情が簡単にくすぐられて、あっという間に理性が負ける。

こんな無駄な時間はない。
本当はこうやって文字を書いたり、人と話したり、絵を描いたり、ピアノを弾いたり、優しい時間を過ごす時間はいくらでもあるはずなのに。
手が黒くぐちゃぐちゃになった人間たちが住む沼に、少しずつ引き込まれて、視界が真っ黒になる。
きっと僕の核の間的な部分がそういう風にできてしまっている。

別の思考の結果だが、何か行動を「恥ずかしい」と思うことは、無意識に自分が周りを見下してきた結果だと思う。
同じような行動を他人がしたときに、自分はきっと見下してバカにする。
それがわかっているから、同じ行動を自分はとれない。
それが恥の感情として現れる。

これに打ち勝つには教育をするしかない。
少なくとも僕は自分本位の人間らしいから、気を抜くと低い準位に落ちてしまう。
できるだけそれを底支えし続けて、低い準位が何かで埋まるのを待つしかない。
当たり前のレベルを少しずつコツコツと上げていくことが、人間という種ができる限界だ。

241020

書いている途中で放置してたら日曜日終わっちゃった。

下半期の誓い

ひょんなことから、バイクショップを見に行くことになった。
友人がバイクに乗るか検討しているとのことで、友人自身とその知り合い2人、それに僕が合わせて帯同することになったのだ。
2時間以上バイク屋を巡った結果、僕と友人はバイクを買うために免許を取ることになった。
というのは前置き。

バイク屋から駅に向かう2.5km、友人と将来について話をした。
バイクを買うと金がなくなる。僕たちに残るものは何だろう。残るのは時間だ。
となると自然にそのリソースの振り方を考える必要がある。
なので僕たちは「金をバイクに」「時間を絵に」極振りすることにした。
30歳が近づいてきて、奮起するにはお互い最後のチャンスが近い。ここで 友人はプロとしてさらに上へ、僕はそれに追いつくように恥を捨てて走る。
半年後の目標に向けて走ることを誓い合った。

水曜日に仕事がひと段落するので、そこから全力で走れるようにエンジンをふかしている。

ざっとした感情の動き

自分は本当に環境に恵まれている。
頑張ろうと思ったときに、それを助けてくれる人が本当に多い。
そしてそれを笑う人がいない。

仕事はできることがどんどん増えていくが、プライベートでできることは増えない。
この違いは「社会的な圧力や責任感」で、プライベートでそれを発生させるには他者を介在させるしかない。
だからこの環境で何も成せないなら一生何も成せない。
やるしかない。

それはそれとして、「調子のいい時に立てた計画は破綻する」という自分の経験則があるので、なるだけ環境や習慣も合わせて変化させていかないといけない

今週の進捗

友人に赤入れしてもらって詳細ラフまでやった。
今週中終わらせたい。

241013

模様替えをした

ベッドと机の位置を変えた。
18歳で1人暮らしをするようになってから、こういった小さな模様替えを1年に1度くらいのペースで行って、その時々の自分に最適化された配置に変えていく。

今回の模様替えの目的は、ベッドで過ごす時間を可能な限り短くすることだ。
6畳ワンルームの狭い部屋では、寝るスペースと作業をするスペースが一緒になってしまう。
ここで問題なのが「作業スペースよりも寝るスペースのほうが居心地が良い」ことと「一度寝るスペースに落ちてしまうと抜け出すのが難しい」ことだ。
この問題のせいで作業ができず心を病む。
(何か生産的なことをしないと自分に絶望してしまう)

分析をした結果、この問題が起きる原因は

  • 部屋に入るとまずベッドがあること
    ∟エネルギーが低くなる入室直後にベッドを見たら飛び込みたくなる

  • 机が窓際にあり、外の視線が気になる
    ∟そのため部屋の内側にあるベッド側に収まってしまう

なのでは、という結論になった。

そのため、机を廊下に一番近い側に置き、ベッドを窓際に置いた。
ついでに遮光カーテンを追加で買って窓につけ、廊下と部屋を区切るためのカーテンとそれを吊り下げる突っ張り某もつけた。
これで完璧な作業空間の完成だ。

あとは手を動かすだけ……だが、またここにもハードルがある。
やったほうがいいことがあるのに手が動かない、なんてありがちな問題を未だにうまく解決できない。
とりあえずスマホを投げて、右手に持っているものがペンであるようにしているが、これがうまくいくのかはまだわからない。
しばらくこの生活を続けてから、もう少し深く考えてみよう。

こういう「何か1つを題材にした日記」を週1くらいで書きたい

影響されやすい人間なので、星野源のエッセイを読んで「俺もこんなふうに日常を書きたいな」と思ってしまった。
さて、続くだろうか。
そもそも都合よく毎週書くことがあるだろうか?
まあ無理にその週に起きたことを書かなくても、心情でも書けばいいか。

ちなみに星野源のエッセイは大体1つ2000字くらいらしいが、この記事は1000文字ない。
あんまり気負わない程度にやろう。

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240728

1130くらいに起きたはずだが、1300に家を出るまでの記憶があんまりない。

 

家系を食べたい欲求が抑えられず、バスに乗ってわざわざ家系を食べに行った。

コメは明らかに余計だった。1000円超えたし。

新しくできた本屋を散歩して、適当に買い物してから家に帰った。

 

1530-1830で寝たりYouTube見て時間を無駄にし、コンビニで飯を買った。

ポテチはいらなかった。

もっというと買い物せず、家にある春雨で事足りた。

もっというと、手を動かしていれば飯を食う暇はなかった気がする。

 

飯食って適当にピアノを弾いて、2130くらいから適当に絵を描き始める。

結局あんまり手は動かさず、風呂に入った。

 

テレビを見ていたら阿部詩が負けたときの映像が流れてきて、「こんなに人目を憚らずに大泣きできるようなこと、自分にはないよなぁ」と思った。

 

また適当に絵を描いて今。

0100なの早いな。1130くらいにはねたほうがいいのではあるが。

明日もまた0650に起きるので5.5h睡眠か、少ない。

仕事について考えている。 今の仕事は間違いなく天職で、様々な条件を考えても他の会社で働くことは考えられない。 出来るなら今の環境のまま働いていたいし、ずっと個のままであってほしいと思っている。

ただ、どんなものにもいつか終わりが来て、この場を離れなければならなくなる。 その時僕はどうしたらいいんだろうか。 まだ起きていない未来について考えるほど愚かなことは無いが、うまく言語化できないボヤっとした不安がある。

日付を跨ぐギリギリまで会社で仕事をする1カ月を過ぎて、「仕事をする」という行為に倒錯した喜びを感じいていた時期が終わって何となく燃え尽きてしまった。 だからこういうことを考えてしまうのかもしれない。 こうやって文章を書こうとすれば何か自分の中にある不安の輪郭を削り出せると思ったが、どうやらそんなことはないらしい。

少し前まで目の前にぶら下げられていた人参が消えて、どこへ向かえばいい変わらなくなっている。 本来人参なんて他人にぶら下げてもらうものじゃなくて自分自身で目標を見つけてそこに向かっていくのが健全な人間のあるべき姿だと思う。 だけど僕はそうじゃない。

なんか別の考えが出てきたから一旦別の話を書こう。

バーとかで最近読んだ本がどうだとかを話すお兄さんがいるのだが、そのお兄さんから勧められた本を全然手を付けられてない。
「最近なにか読んだ?」
「最近は寝て起きてが精一杯で……」
なんてやり取りをしてしまう。

デザイナーの友人と
「最近何か描いてる?」
「いや、最近は忙しくて何も……」
なんてやり取りをしてしまう。

少し前は本も読んで絵も描いて、1日に使える時間をどれだけ増やすかに執心していたのに、今はできるだけ寝て、会社で日付を跨ぐギリギリまで働いている。
最近の僕は仕事に時間をかけることを正義としていて、この仕事がこの小さな世界を救うと本気で信じている。
実際その意義はあったと信じているが、いざ山を一つ越えるとひどい虚無感だけが残った。
あれだけ時間を求めていたのに、休みの日に何をすればいいかわからない。
少し前は友人と毎週のように出かけていたが、ラインを開く元気すら無くてもう一カ月くらい出かけていない。

ただ部屋でぼーっとして、飯食ってタバコ吸ってしこって寝ることを繰り返す。
三大欲求とはよく言ったもので、こんな状態でもある程度の満足感を人間に与えてくれる。
自分はストレスで飯を食ってるのだと思っていたが、暇に耐えられなくて、でも何もできなくて飯を食っているらしい。

試しに本を読んでみたが、ずっと目が滑って頭に何も入らなくて、5分もたたずに読むのをやめた。
試しに好きな絵をなぞり書きしてみたが、線を二本引いたところで飽きてやめた。
試しにピアノを弾いてみたが、覚えていたはずの曲が全然弾けなくなっていてやめた。

何の元気も出ない。
何をすれば元に戻るんだろう。

仕事についてもよくよく考えてみれば、時間をかけていただけな気がしてきた。
よく「XXXX時間かければ誰でもプロになれる」なる言説を耳にするが、100マス計算を何千時間やってもプロの数学者にはなれないのと同じように、そこに質が伴わないなら何にもならない。
僕はただ与えられた大量の仕事を機械のように捌いていただけであって、そこに何か自分の意思が介在していたわけではなかった。
面倒なことは人間にやらせようという話で、僕は誰にでもできる面倒ごとをこなす機械として都合がよいだけで、何かクリエイティブを生み出したわけではないのだ。

いざ指示がなくなればこのありさまで、人間が本能的に持っている欲求でしか行動ができなくなってしまう。
多分そこいらの家にいる飼い犬のほうがまだ能動的に生きている。
ひたすら自分の意思がなくてもいいことをやり続け、それに快感を得てしまったせいで何もできない人間になってしまった。

熱心/必死であることと時間をかけることはイコールではない。
改めて書かなくても明らかにわかることに僕はこの長い間気が付かなかった。
ずっと記事に書き続けているが、僕はもう熱心に何かをする力を失ってしまった。

言霊という概念がある。
スピリチュアルなものを僕は信じていないが、マザーテレサが言ったとされる「言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。 (後略)」には一理あると思っている。
こうやってネガティブな思考や思想をひけらかし続けると、いつかそれが自分に定着してしまうのだろう。
だけど僕はこの行動をどうしてもやめることができない。
これはもう僕の運命に染みついてしまったんだろう。

思考の記録

6年間過ごしてきて、人ひとりの人生ではありえないほどのことがたくさんありました。
さいたまスーパーアリーナに「ありがとう」が溢れる――Wake Up, Girls! FINAL LIVEリポート | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

心の中に強く刻まれている言葉の一つ、Wake up, Girls!の解散ライブで田中美海さんが朗読した手紙の1フレーズだ。

学生時代はずっと「何者かになりたい」というぼんやりとした願いを抱えて生きていた。
それがいつしか形を変え、「人の心を動かす何かを作りたい」という思いに変わっていた。
そんな時に聞いたこの言葉が、僕を今の職へと駆り立てた。
人ひとりではできないことが、人の人生を変える。
僕一人ではできないけど、大きな機械の歯車になることならできる。
僕の言葉や制作物が直接誰かに届くことはないかもしれないけど、その一助になることならできる。

しんどいことは多いけど、それでも今僕がこの仕事をできることは本当に幸福なことなのだと思う。
今僕がやっていることが直接誰かの人生を変えるかはわからない。
だけどこの行為がその結果につながると信じている。

大学生のころの僕が見たら、きっと今の僕をうらやましく思うはずだ。
だから僕は、僕の人生を、僕の大好きなものに捧げる。
僕が大好きなものを、みんなも大好きになってもらいたい。
僕がかけられた呪いを、祝福を、みんなにもかけたい。

調子のいい時に考えることはあまり意味を成さないけど、だけどこうやって記録することにはきっと意味がある。

そして僕の愛するコンテンツが、僕が製作に携わるコンテンツが、たくさんの「昔の僕のようなオタク」を嫉妬させられるような成長をしてくれますように。
おわる星の煌めき、はじまりの空の色|はしご

とりとめもない思考の記録

年末年始の雰囲気が嫌いだ

世界が止まっているような感じ、街には何もないのに人が慌ただしく動いてる感じ。
いつもは濁った川の中で泳いでいるような感覚なのに、年末年始は泥の中を無理矢理に進んでいるような感覚になる。
自分自身が日常を求めているというより、世界がいつも通りあってほしいという欲求が強いらしい。
日常の中に非日常や小さな楽しみを生きている人間からすると、そのものが非日常になってしまうのがしんどい。
というわけで今日は世界の非日常に乗っかっていつもやらない思考の文字化をしようと思う。
ついでに年末年始のまとめもやっちゃおう。

ステップ・バイ・ステップ

昔から階段を一段飛ばしで歩く癖がある。
空いている道があるならそちらを選ぶし、近道があるのであれば多少しんどくてもそちらを選ぶ。
誰かと一緒にいるときは表に出さないようにしているが、実際は今巷で言われているタイパを体現した人間だと思う。
だから何か成長をしようとしたり、目的がある場合は「一歩ずつ」が耐えられない。
いざ「一歩ずつ頑張ろう」と決意しても、次の日には前日に立てたロードマップから外れて近道を探している。
よく言えば効率よく、悪く言えばずるがしこく生きることを美徳として生きてしまった。

この方法で中途半端に成功体験を積んできた人生だから、どうしてもこの呪縛から抜け出せない。
顕著なのが受験勉強で、たまたまこの方法がぴったり当てはまったからうまくいったが、すべての事象に一般化できないことは言うまでもない。
3年の成果を1日で得ようとして、3年間何も得られていないのだ。
長期間で見た時、確実に成果を得るなら複利的な努力が結果的に効率が良い。
僕がやっているのは一か八かのデイトレードに見せかけた停滞、もしくは後退だ。
一日1%でいい、なんなら0.1%でもいい、少しずつ上向けばいいのだ。
もちろんそれには元手が必要だが、それを得る方法がないならもう長期的に見据えてさっさと複利的な努力にリソースを割いたほうがいい。
これは早ければ早いほど得をする、そして降りたものが損をする。
少しずつやっていこう。

今年の話

今年を大雑把に語るなら「大きな1を手に入れたが、それ以外は何も手に入れられなかった」という言葉になると思う。
去年は「小さな0.1がたくさん得られた」年だった。
働く環境が大きく変わったということもあるが、適応する時間はいくらでもあった。
何を優先するべきなのか、何を成したいのかをボヤっとしたまま、人に与えられたものをやり続けていたら、他人が与えてくれた大きな1つしか手に入らなかった。
それ自体に不満はないが、リソースの割り振りが下手だったなとは思う。

来年はどうしようね

「調子がいい時に立てた計画は破綻する」 僕が常日頃計画を立てるときに考えることだ。
今の自分の最低値、平均値、最高値を見極めて、最低でも0.01の上昇を作り続けるにはどうしたらいいんだろう。
そもそも自分が進む方向は1本道ではないので、残りのN十年の1をささげられる指針があると嬉しい。
恥を捨てて応援されるような人になろうというところだけは決まっている。
後で自分で整理してみようと思うけど、恥を捨てるためにも整理できたらどこか見えるところに置いておこうと思う。
思考だけじゃなくて、実践が伴うといいね。

今年もお疲れ様でした

皆さまよいお年をお過ごしください。