昇り降りの日々

学務様が見てる

仕事について考えている。 今の仕事は間違いなく天職で、様々な条件を考えても他の会社で働くことは考えられない。 出来るなら今の環境のまま働いていたいし、ずっと個のままであってほしいと思っている。

ただ、どんなものにもいつか終わりが来て、この場を離れなければならなくなる。 その時僕はどうしたらいいんだろうか。 まだ起きていない未来について考えるほど愚かなことは無いが、うまく言語化できないボヤっとした不安がある。

日付を跨ぐギリギリまで会社で仕事をする1カ月を過ぎて、「仕事をする」という行為に倒錯した喜びを感じいていた時期が終わって何となく燃え尽きてしまった。 だからこういうことを考えてしまうのかもしれない。 こうやって文章を書こうとすれば何か自分の中にある不安の輪郭を削り出せると思ったが、どうやらそんなことはないらしい。

少し前まで目の前にぶら下げられていた人参が消えて、どこへ向かえばいい変わらなくなっている。 本来人参なんて他人にぶら下げてもらうものじゃなくて自分自身で目標を見つけてそこに向かっていくのが健全な人間のあるべき姿だと思う。 だけど僕はそうじゃない。

なんか別の考えが出てきたから一旦別の話を書こう。

バーとかで最近読んだ本がどうだとかを話すお兄さんがいるのだが、そのお兄さんから勧められた本を全然手を付けられてない。
「最近なにか読んだ?」
「最近は寝て起きてが精一杯で……」
なんてやり取りをしてしまう。

デザイナーの友人と
「最近何か描いてる?」
「いや、最近は忙しくて何も……」
なんてやり取りをしてしまう。

少し前は本も読んで絵も描いて、1日に使える時間をどれだけ増やすかに執心していたのに、今はできるだけ寝て、会社で日付を跨ぐギリギリまで働いている。
最近の僕は仕事に時間をかけることを正義としていて、この仕事がこの小さな世界を救うと本気で信じている。
実際その意義はあったと信じているが、いざ山を一つ越えるとひどい虚無感だけが残った。
あれだけ時間を求めていたのに、休みの日に何をすればいいかわからない。
少し前は友人と毎週のように出かけていたが、ラインを開く元気すら無くてもう一カ月くらい出かけていない。

ただ部屋でぼーっとして、飯食ってタバコ吸ってしこって寝ることを繰り返す。
三大欲求とはよく言ったもので、こんな状態でもある程度の満足感を人間に与えてくれる。
自分はストレスで飯を食ってるのだと思っていたが、暇に耐えられなくて、でも何もできなくて飯を食っているらしい。

試しに本を読んでみたが、ずっと目が滑って頭に何も入らなくて、5分もたたずに読むのをやめた。
試しに好きな絵をなぞり書きしてみたが、線を二本引いたところで飽きてやめた。
試しにピアノを弾いてみたが、覚えていたはずの曲が全然弾けなくなっていてやめた。

何の元気も出ない。
何をすれば元に戻るんだろう。

仕事についてもよくよく考えてみれば、時間をかけていただけな気がしてきた。
よく「XXXX時間かければ誰でもプロになれる」なる言説を耳にするが、100マス計算を何千時間やってもプロの数学者にはなれないのと同じように、そこに質が伴わないなら何にもならない。
僕はただ与えられた大量の仕事を機械のように捌いていただけであって、そこに何か自分の意思が介在していたわけではなかった。
面倒なことは人間にやらせようという話で、僕は誰にでもできる面倒ごとをこなす機械として都合がよいだけで、何かクリエイティブを生み出したわけではないのだ。

いざ指示がなくなればこのありさまで、人間が本能的に持っている欲求でしか行動ができなくなってしまう。
多分そこいらの家にいる飼い犬のほうがまだ能動的に生きている。
ひたすら自分の意思がなくてもいいことをやり続け、それに快感を得てしまったせいで何もできない人間になってしまった。

熱心/必死であることと時間をかけることはイコールではない。
改めて書かなくても明らかにわかることに僕はこの長い間気が付かなかった。
ずっと記事に書き続けているが、僕はもう熱心に何かをする力を失ってしまった。

言霊という概念がある。
スピリチュアルなものを僕は信じていないが、マザーテレサが言ったとされる「言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。 (後略)」には一理あると思っている。
こうやってネガティブな思考や思想をひけらかし続けると、いつかそれが自分に定着してしまうのだろう。
だけど僕はこの行動をどうしてもやめることができない。
これはもう僕の運命に染みついてしまったんだろう。

思考の記録

6年間過ごしてきて、人ひとりの人生ではありえないほどのことがたくさんありました。
さいたまスーパーアリーナに「ありがとう」が溢れる――Wake Up, Girls! FINAL LIVEリポート | ゲーム・エンタメ最新情報のファミ通.com

心の中に強く刻まれている言葉の一つ、Wake up, Girls!の解散ライブで田中美海さんが朗読した手紙の1フレーズだ。

学生時代はずっと「何者かになりたい」というぼんやりとした願いを抱えて生きていた。
それがいつしか形を変え、「人の心を動かす何かを作りたい」という思いに変わっていた。
そんな時に聞いたこの言葉が、僕を今の職へと駆り立てた。
人ひとりではできないことが、人の人生を変える。
僕一人ではできないけど、大きな機械の歯車になることならできる。
僕の言葉や制作物が直接誰かに届くことはないかもしれないけど、その一助になることならできる。

しんどいことは多いけど、それでも今僕がこの仕事をできることは本当に幸福なことなのだと思う。
今僕がやっていることが直接誰かの人生を変えるかはわからない。
だけどこの行為がその結果につながると信じている。

大学生のころの僕が見たら、きっと今の僕をうらやましく思うはずだ。
だから僕は、僕の人生を、僕の大好きなものに捧げる。
僕が大好きなものを、みんなも大好きになってもらいたい。
僕がかけられた呪いを、祝福を、みんなにもかけたい。

調子のいい時に考えることはあまり意味を成さないけど、だけどこうやって記録することにはきっと意味がある。

そして僕の愛するコンテンツが、僕が製作に携わるコンテンツが、たくさんの「昔の僕のようなオタク」を嫉妬させられるような成長をしてくれますように。
おわる星の煌めき、はじまりの空の色|はしご

とりとめもない思考の記録

年末年始の雰囲気が嫌いだ

世界が止まっているような感じ、街には何もないのに人が慌ただしく動いてる感じ。
いつもは濁った川の中で泳いでいるような感覚なのに、年末年始は泥の中を無理矢理に進んでいるような感覚になる。
自分自身が日常を求めているというより、世界がいつも通りあってほしいという欲求が強いらしい。
日常の中に非日常や小さな楽しみを生きている人間からすると、そのものが非日常になってしまうのがしんどい。
というわけで今日は世界の非日常に乗っかっていつもやらない思考の文字化をしようと思う。
ついでに年末年始のまとめもやっちゃおう。

ステップ・バイ・ステップ

昔から階段を一段飛ばしで歩く癖がある。
空いている道があるならそちらを選ぶし、近道があるのであれば多少しんどくてもそちらを選ぶ。
誰かと一緒にいるときは表に出さないようにしているが、実際は今巷で言われているタイパを体現した人間だと思う。
だから何か成長をしようとしたり、目的がある場合は「一歩ずつ」が耐えられない。
いざ「一歩ずつ頑張ろう」と決意しても、次の日には前日に立てたロードマップから外れて近道を探している。
よく言えば効率よく、悪く言えばずるがしこく生きることを美徳として生きてしまった。

この方法で中途半端に成功体験を積んできた人生だから、どうしてもこの呪縛から抜け出せない。
顕著なのが受験勉強で、たまたまこの方法がぴったり当てはまったからうまくいったが、すべての事象に一般化できないことは言うまでもない。
3年の成果を1日で得ようとして、3年間何も得られていないのだ。
長期間で見た時、確実に成果を得るなら複利的な努力が結果的に効率が良い。
僕がやっているのは一か八かのデイトレードに見せかけた停滞、もしくは後退だ。
一日1%でいい、なんなら0.1%でもいい、少しずつ上向けばいいのだ。
もちろんそれには元手が必要だが、それを得る方法がないならもう長期的に見据えてさっさと複利的な努力にリソースを割いたほうがいい。
これは早ければ早いほど得をする、そして降りたものが損をする。
少しずつやっていこう。

今年の話

今年を大雑把に語るなら「大きな1を手に入れたが、それ以外は何も手に入れられなかった」という言葉になると思う。
去年は「小さな0.1がたくさん得られた」年だった。
働く環境が大きく変わったということもあるが、適応する時間はいくらでもあった。
何を優先するべきなのか、何を成したいのかをボヤっとしたまま、人に与えられたものをやり続けていたら、他人が与えてくれた大きな1つしか手に入らなかった。
それ自体に不満はないが、リソースの割り振りが下手だったなとは思う。

来年はどうしようね

「調子がいい時に立てた計画は破綻する」 僕が常日頃計画を立てるときに考えることだ。
今の自分の最低値、平均値、最高値を見極めて、最低でも0.01の上昇を作り続けるにはどうしたらいいんだろう。
そもそも自分が進む方向は1本道ではないので、残りのN十年の1をささげられる指針があると嬉しい。
恥を捨てて応援されるような人になろうというところだけは決まっている。
後で自分で整理してみようと思うけど、恥を捨てるためにも整理できたらどこか見えるところに置いておこうと思う。
思考だけじゃなくて、実践が伴うといいね。

今年もお疲れ様でした

皆さまよいお年をお過ごしください。

枯れていく

最近は起きて風呂に入ったらそのまま会社に行き、会社から帰ったらスマホをちょっと見て寝る生活をしている。
なにもやる気が起きない。ただ体が睡眠だけを欲している。

10月の土日、ほとんど外出しなかった。
このままじゃマズいと思って先週の日曜日の15時ごろに家を出て、美術館で時間を潰した後22時までひたすら夜の東京を歩き回った。
何か思索にふけるかと思ってできるだけスマホを見ないように、ただ目の前の景色だけを見て何時間も歩き回ったけど、考えたことは「寝て起きて寝る」という文字だけだった。

ペンも1か月くらい握ってない。
さっきピアノの電源をつけてみたけど覚えている曲が全然なくてすぐに切った。
仕事もしたくない。どうしてこんなに頑張らなきゃいけないんだろうか。
何もしないことに対するほんのちょっとだけの罪悪感と、自分の思い通りにならない世界への恨みでこの文を書いている。

人としゃべる機会を与えられても、死にかけの捻くれジジィのようにぼそぼそとしか喋れなくなった。
楽しくない。全部が無駄。

文を組み立てるのもめんどくさくなってきた。
推敲せずにこのまま投げちゃおう。

もう何もしたくない。
これをあと何十年もやらなきゃダメなのか?
なぜ?なぜ?なぜ?
考えるだけ無駄だ、あと何十年も、寝て起きて寝るだけ。

心が動くということ

僕のよく行くバーのマスターは50歳くらいで、話がとてもうまい人だ。
バーに来る人達も大体それくらいの年齢で、社会でそれなりに地位や肩書や実績を持っている人が多い。 マスターはそういった人達の話をうまく引き出す。
僕は特に地位も肩書も実績も持っていないが、その例に漏れず色々な話を引き出される。
でもいざ、自分の引き出しを開けてみると、何も入っていない。
だからお客さんやマスターの話聞いていると、この年までこうやって語れるほどに夢中になれるものがあることをうらやましく思ってしまう。

僕が夢中になるものって何だろう。
僕の人格を変えるに至った人間、僕を大学生たらしめた学問、僕の労働先を決定づけたゲーム、僕に本を出させるまで動かしたコンテンツ、そういったものにしばらく出会っていない。
どんどん何かに狂うような感覚が薄くなってきて、ゲームやアニメの女の子が可愛くて狂う、なんて言って10分後には忘れている。

僕は外的なものに自分を動かしてもらってきた。
自分の意思で選んだというよりも、環境によってそうせざるを得ない状況に追い込まれ、それに夢中になっていると勘違いをしていたのだと思う。
その感度が少しずつすり減っているということは、僕の引き出しの中に入るものがどんどん減っていくことを意味している。

長々と書いたけど、結局僕は何かに夢中でいたいのだ。
大きなステージの上で「お前にはわからない」と叫ぶような衝動を、人ごみの中で何かを大好きだと叫ぶ恥じらいの無さを、社会になじむための訓練で失ってきた。
そもそもそんなものが、僕の中にはなかったのかもしれない。
きっと借り物の感情を演じていただけなのだ。

自分をさらけ出すこともしなくなったし、する必要もなくなった。
毎日のように適当な作り話をして、存在しない人格を演じている。
ただ失敗をしないように、日々を適当に転がしている。
人に迎合して当たり障りのないことを言うだけで、少しずつ人生の終わりが近づいていく。
この文章にだって本当の自分の主張なんか少しも入っていないのかもしれない。

誰か僕の手を強く引いてくれ、そんな他人任せの気持ちがわいてくる。
自分自身でその一歩を踏み出す勇気なんて体のどこにも残っていない。

何かが進んでいるような気になりたくて、今日も足がバーに向かおうとしてしまう。
今からお風呂に入れば、この欲求もきっとなくなるんだろうな。

これは今日の曲
こうやって借り物の言葉で気持ちを埋めるのがやめられない。

youtu.be

生きるのが怖い

先週は本当に気が狂うような働き方をした。
世のブラック企業の皆様には遠く及ばないが、軟弱な自分の基準では本当につらいものがあった。

仕事をしていれば緊急の対応など往々にしてあるし、想定したとおりに事が進むなんてそうそうない。
それをわかったうえで、僕はそういった大変なことをしたくないと心から思っている。
もっと言えば、何もしなくていいなら何もしない。

自分の食い扶持を稼ぐために週5で働いて、自分の世話をするためにその金を使う。
働かなきゃ生きていけない、そういうシステムの中で生きているから、週5で時間通りに会社に行かないと怒られるから、毎日時間通りに起きて、時間通りに仕事をして、他人の負担にならないようにちょっとだけ残って帰る。
転職でもすればよいという人間もいるが、僕はもっといい仕事に就きたいのではない。
働きたくない、ほんの少しでもつらい思いをしたくない。
楽しいことだけ考えて、暗い将来を悲観せずに能天気に生きていたいだけなのだ。
甘えるなというが、そういうシステムの中でたまたま適応できる人間にそんなこと言われたってなにも響かない。

苦しみの可能性がほんの0.0001%でもある労働という行為を週5、自分の命が尽きる残り何十年も、自分ただ一人のために続けなければならない。
何かが好転することもなく、何かイベントが起きることもなく、かといって何かをしたいという明確な欲求もなく、ただひたすら無駄に健康な体を転がし続けることに恐怖しかない。
誰かのためになるとかそういうことも考えたくない、何もしたく宇内、何も考えたくない、でもシステムの中で生きる以上、そこで望まれることをこなし続けないと「普通」の生活がおくれない。

日々の生活に張り合いもない。
Youtubeを開いても見たい動画がない、ちょっと前まではVtuberを見てキャッキャしていたが、見る気が完全に失せてしまった。
世の中のニュースにもさほど関心がない、かわいい女の子が出てくるゲームもやる気が起きない、絵を描く気も起きない。
友人は「誰と過ごすかが大事だと日々感じる」とよく言うが、僕はそういいながら毎週のように会ってくれる友人と出かけることすらも面倒になっている。
(読んでいたらごめん、君らや君らとの時間が嫌いなわけでは決してない)

もう自分が考えていることを文章化することも面倒くさい。
もう生きることを考えたくない。
死ぬ度胸も気力もない。
くだらない慰めや同情を聴くたびにイライラする。
こんな怒りや無気力や絶望が混じったぐちゃぐちゃな感情をどうやってほどけばいいのかわからない。
ただこのシステムの中で無気力に生きて、ただひたすら怯えながら生きていく。

目的のない文

GWは祖父母の家にいた。
祖父母は終活と銘打って色々なものを整理するのにハマっており、その一環で田舎に買った家で4月から隠居生活を始めた。
お正月に会ったときに「絶対に遊びに来てね!」「絶対行くよ」とした約束を果たすための小旅行だった。

電車で4時間揺られてついた町は文字通りのカエルの合唱が響く田舎で、日が沈んだ薄暗い空に雪が解け残った山が映えていた。
先に祖父母の家についていた叔母に迎えに来てもらい、何もない田舎道をしばらく揺られる。
窓から見える景色をアルプスを見ながら「祖父母はこの町で死ぬのだ」と縁起でもないことを考えていた。

着いた家はなんて事のない普通の一軒家で、庭には小さな畑、中には見慣れた家具が並べられていた。
祖父母は相変わらずいつも通りで、「最近田植えが始まった」とか「山菜がうまい」とかそんな他愛もないことを話す。
僕はそれに適当に相槌を打つだけだけど、そんなどうでもいい時間を楽しんでいた。

祖父母の家にいた間はYoutubeも全然見ないし、絵も描かないし、普段の生活からかけ離れた文字通り「何もしない」時間を過ごした。
普段何かをしないと落ち着かない生活をしているので、かなり久しぶりに無の時間を過ごした。
祖父母はこの何もない生活を楽しんでいるのかと思うと、少しうらやましかった。

GWが明けて2日過ごしてみてわかったのだが、僕は普段の生活に目的がない。
ただ寝て起きて仕事をする繰り返しだけの生活で、サイクル自体は祖父母とそこまで変わらないのだが、僕の生活のほうはどことない虚無感を感じる。
きっとそれは世界を楽しんでいるかどうかの違いで、僕はビルに囲まれた広い世界の中でただ寝そべっているだけ、祖父母は山の中の小さな世界でその機微を愛でている。
ただ生活がつらい、目的のない僕の人生が行きつく先に、山の中の小さな家は無いのだなと何となく悟った。
僕はどこにいるのだろう、どこに向かうのだろう、どこに行きつくのだろう、たった1人しかいない人生自体を悲観しているわけではないが、自分の目線の先に何があるかもわからない状態で生きることにただ苦痛を感じる。
親が健康な体に生んでくれたおかげで、自ら命を絶たなければきっとあと60年近くは生きる。
気が付いたら30という数字が見えてきた、僕はどうやって生きていけばいいだろう。
もう何もわからない。


物心ついた頃から祖母は別れるときは僕にハグをする。
気恥ずかしいと思った時期もあったけど、20を過ぎたあたりから自分から積極的にするようになった。
このハグで僕の寿命を祖母に分け与えられたらいいのに、といつも思う。
だから僕は念を込めて背中をさする。
一分一秒でも、祖母がこの世界を楽しむ時間が長くなるように。