昇り降りの日々

学務様が見てる

丘の上のノスタルジア

脳味噌の中で渦巻く濁流の放流。
文の論理は気にしない。
脳が指を動かすままに文字を記録する。

気持ち その1

誰に怒られるわけでもないのに、コソコソと夜に出歩く日々が続いている。
夜に街を歩き回るのも嫌いではないけれど、歩いた場所が線でつながらない感覚があるので適当なタイミングで昼に歩き回りたい気持ちがある。

この前試しに昼間に外出してみたら想像以上に人間が出歩いていて驚いた。
人が溢れるスーパー、サーティーワンに列を成す人たち、なんか僕だけが一人誰もいない家で全てを深刻に受け止めていただけなのかなぁ、と考えてしまう。
状況が変わる前までは「もしかかったら日本中にばら撒いてこの腐った社会変革してやるわw」みたいなよくわからない感情があったけど、いざ自分が困ると「さっさと収束しねぇかなあ」と思っている。
別に社会がどうなろうと困りはしない(と思っているだけで実際はめちゃくちゃ困ると思う)けど、なんか誰かにみられていて、それを咎められそうで身動きが取れない。
自分も石を投げている手前、投げられている側に身を置く度胸がない。
我が身かわいさに立場をコロコロ変える蝙蝠としてずっと生きていきたので、こんな状況になると自分がどの立場にいればいいのかわからなくなって頭が爆発しそうになる。

気持ち その2

これだけ時間が用意されているのに、自分はぼうっと時間を無為に過ごしている。
TwitterYoutube、暇つぶしの道具に暇以外の時間を食われている。
やるべきことはわかっている、明確に区分けして順番を決めてやればいいだけなのにそれが実行できない。
何かに夢中になろうと思ったらできる程度には時間が用意されているのに、その時だけ仕事を持ち出して何もしない。
僕が履けるのは1足の草鞋だけなんだなぁと改めて実感する。
何をやるのか何をやらないのか明確に書き出さないと何もできない。
書き出せばいいだけなのに、なんかダサい気がしてやってない。

気持ち その3

人の作ったものに触れると何かをしたいという気持ちに駆られる。
けれど、誰かが言っていた通り「たまに湧くやる気は、やる気じゃなくて気まぐれ」という言葉が自分にはかなり正しく当てはまる。
やる気のある時に立てた計画は簡単に破綻すると、学部生の頃に嫌なほど学んだ。
やっぱり2で書いた通りに何をやるべきなのかちゃんと書くべきなのかもしれない。
ダサいけど。

気持ち その4

今まで何を娯楽にして生きてきたんだろう、と見つめ直す時期だ。
誰かの中でくすぶる激しい感情を食べること(これは他人のもの)。
瞬間的に爆発するような感情(これは自分のもの)。
場所で感じるノスタルジー(これも自分のもの)。

今日散歩していると、「自分は坂とか階段とか丘が好きだな」と改めて感じた。
なぜか坂に懐かしさを感じる。
特に下り坂が好きだ。大きな高低差のある下り階段が好きだ。
反対側の岸に見える建物のどうしようもない遠さとか、階段の下が見えない状態で「ここを降りた先にあるものはなんなんだろう」というワクワク感とかもあるんだけど、それだけではない気がする。
言葉では説明できない何か、もうノスタルジーとしか呼ぶしかないのだと思う。
僕はことあるごとに、人生の何か節目ごとに高いところから遠くを見ていた気がする。
沖縄でも、福岡でも、高いところが好きだった。
高いところというよりも、そこから見える遠くのものとか、ただ平に広がる風景とか、そういうものかもしれない。
自分もどこかに飛んでいけるような気がするんだろうか。

『自分は』何がしたい?

なんだかここ数年、自分は何がしたいんだ?という自問自答を繰り返していたような気がする。
その先に得られる結論は、僕の選んだ道を肯定するような、自分のうっすらと考えていた夢を肯定するような「何かを作りたい、何かを人に与えたい」という欲求がそれぞれ別の形になったものだと思う。
けれど結局それって「誰か」がいないと成り立たない。
誰かに認めてもらいたい、誰かが僕の感情を元に作ったものを肯定する、そうやって相対的に自分を評価しないと自分そのものに価値が見出せないだけなのではないだろうか。
自分は何がしたい?僕を評価する人間の存在が薄くなってしまった今の世で、少しずつアイデンティティを支える物が消えていく。
僕は何がしたい?違うな、僕はどうしたい?ニュアンスの方はこっちの方が近いかもしれない。
それがただ床に寝転がって、好きな音楽を聴きながら目を瞑るでもいいし、好きな場所で好きな景色を見るだけでもいいかもしれない。
上昇志向の渦に飲み込まれてはいけない。
けれど「誰か」を評価軸に置いている僕も救ってあげなきゃいけない。
交互に顔を出す感情の一部分を、どうやってハンドリングすればいいんだろう。

君の感情になりたい

湧き上がるような物ではなく、内側の内圧を時間と共に少しずつ高めていくような、ぐつぐつと粘度の高い液体がその壁を吹き飛ばして辺りをその色で一面染めてしまうような感情の流れを食べて生きている。
自分の心を裏側を爪で思いっきり引っ掻きたいような気持ちを感じた時にそういったこと感情を食べたくなる。
人に対して燃え上がるような正の感情を抱くことはもう長いことないけれど、やっぱり脳味噌はそういったある意味麻薬のような短期的に爆発するような、たくさんの処理し切れないほどの情報の渦に溺れる感覚を求めている。
論理的に言葉で解決できるものなんて、高々一度人間の脳と思考で整形されたものにすぎなくて、ハイレゾなものを感じるにはそれを己が身に宿すしかない。
だから僕は毎日のように「君の感情になりたい」と言う。
それも敵わないけれど、少しずつ解像度を高めて、その感情に本当はあるはずだった鋭いピークや、恐ろしく平坦なペデスタルのさらに底にあるヘドロを感じられるようになりたい。

文字にすること

Twitterがやめられないのは、頭から溢れるものをどこかに放流しないと「もったいない」と感じるからだと思う。
思いついた素晴らしいアイディア、ふと湧いたよくわからない感情、これをどこかに記録しておかないと無かったことになりそうで怖い、という恐怖も若干ある。
上記をまとめると「強迫観念」っていうのかもしれない。

中学生の頃、日々起きたことを全てメモ帳に記録していた時期があった。
部活中に同級生に「新聞記者かよ、気持ち悪い」と言われて一年くらいでやめてしまったが、確かに当時も強迫観念のような物が最後の方にはあった気がする。

今もこうやって文字を書いてるけど、これはあんまり何かに駆られてる感じはしない。
腰を据えて一気に1000文字以上の文字を書くって結構書き始めるまでにエンジンかけるのが面倒だし。
でも書き始めると堰が切れたように書きたいことが溢れてきて止まらなくなるのと同時に、「自分てこんなに複数のことを一気に考えようとしていたのか」という気づきがかなりある。
Twitterだと思考がスパゲティーのまんまで状況は改善しないどころか、普通の人たちは忘れてしまうような一時的な感情も全部記録した上で一貫性を保とうとするから余計絡まってしまう。

できるだけ毎日記録をこうやって書くべきなんだろうけど、『記録を書くこと』イコール『自分のしたことを書く』という認識が今の今まであったのでなかなかこうやって思うようにだらだらと文を書くことが無かった。
実際そうやって書いた文章って後から読み返しても面白くない。
当時は感情が波立っていなかったということもあると思う、そもそも感情が荒ぶってないとこんなふうに文字が溢れてくることないもんな。
でも一本糸をスルスルっと抜くと突然何かが溢れてくることがある、それこそ今みたいに。
別に今日は何か書かなきゃという強迫観念じみたものは無かったのにこうやって3000文字に届きそうなほど文字を書いている。
自分で「今自分の気持ちが波立っている」と気づけるくらいの時はもう既に大荒れの時で、今の僕みたいに自分の気づかないところで何かが溢れ出していたなんてことも結構あるのかもしれない。
いざ書いて何も出てこなかったら、それはそれでよしとして、今日みたいに「自分では気づかなかったけど感情が渦巻いていた」という瞬間を積極的に探すべきなのかもしれない。
半年くらい前に「面白い文を書くには感情を揺らすしかない」とか書いた気がするけど、自分で気づく感情の揺らぎだと毎回同じ話題や同じ悩みしか書かない。
当時はかなり大発見したような気がしていたけど、今思うとちょっとアホらしい。

やっぱり僕はこうやって文字を書かないと何も解決できない。

俺の心臓の裏側を見てくれ

僕の心の裏側には何が書いてあるのか、心は僕の体の中にあって、取り外せないものだから見ることができない。
なら対話を続けてその裏側に書いてあることの輪郭を掴むしかない。

衝動

open.spotify.com

僕だって悲しくなったり、切なくなったり、ため息吐いたり、惨めになったり、いつかは失う命を思ったりする。
でも息をするしかない、こうやって何もかもが白日の元に晒せたら、心臓を切り出して日の元に差し出せたなら、と思うけど進むしかない。

高校生ごろの僕は、何もできない人間だったと思う。
何も無かったと思う。
何でも無かったと思う。
なんでこんなことになっているんだろう、自分でもよくわからないけど、少なくとも自分はここまでくるのにたくさんの人に引き上げられて、しがみついて、蹴落としたらここにいた。
怒りでもなく、ノスタルジーでもなく、感謝をそこに見出せるようになりたい。

終わり

久々にぐわーっと文字を書いてすっきりした。
マックの浅いキーボードを思いっきりバチバチと叩くの、結構好きかもしれない。外とか人前では絶対こんな叩き方できないけど。
結局脳みそとか心整理するには僕は文字をこうやって長々と書くのがいいのかもしれない。
明日コミケに出すはずだった本かこうかな。そんなやる気あるかな。
ブログくらいは書いてもいいかもしれない。
今までフォーマット気にしすぎてた。
溢れるものをさっさと載せてしまおう。
今日はおやすみ。