昇り降りの日々

学務様が見てる

理性と集団と自意識とそれは人間性

ある所属組織にて飲み会があったのだが、その組織がやっていること、求めている景色について毎度のこと議論が交わされる。

正直、語られるそれは僕の価値観に全然合わない。なんで休日の過ごし方まで指定されなきゃならんのだ、なにも考えずにだらだらしてますって言ったら絶対に攻めてくるだろ、何かやってる方が偉いってか。ギリギリ攻めて何が悪い、必要最小限の努力で必要な分の成果が得られればそれでいい。やつらの言葉には思い切り生存バイアスがかかってる。

危うく納得させられそうになりそうになったが、アナロジーになってない議論ばっかりだ。

できないことの多い人間を的にして、集団としての意識を高めていることに気づいてしまったので、かなりしんどい気持ちになっている。なんだこいつら。こいつらの言う社会性ってなんだ。家族観ってなんだ。

僕はそれが正しいなんて信じない、僕の信じる理性があるし、きっとそれは僕の心を守ると信じている。

死にたいけど生きなきゃならない、そんな気持ちで生きている僕に、彼らの考えは全く合わなかった、ってだけだと思ってるので彼らにそれを押し付けるつもりはないし、それが間違ってると言うつもりもないけど、代わりに僕にも押し付けないでほしい。

 

まとめると

僕だけは、何があってもこの自分が正しいと信じる理性を持ち続けたいと誓った日だった。

自分用のメモ。

生産されない心、消費される身

生産者になりたい、さもなくば概念になりたい。めっちゃ概念になりたい。やっぱり堺雅人になりたい。

透明人間として生きることには耐えられなくて、でも何者かになるために積む修業は自尊心をもりもり削られる。今日もラボミーティングで軽くけんかを買ってしまった。もう駄目だ、イキってしまった。うーんしんどい。

 

結局うまく騙し騙しで生きてきたつけが回ってきてる。

てかさ、純粋無垢に将来も考えずに生きてきた高校生までの日々がつけに回ってくるってヤバくないですか、何、みんなそんな先のことまで見据えて生きてたの、そのための人間性社会性だったのか。君らすごいな。

僕の方が色々考えてると思ってた、けど僕は行きたい方向一本しか見えていないので結局こだわらずに一歩でも前に進んでる人間のほうが強くて、みんな続々と就職を決め、きらきらとした写真をインスタに上げている。インスタ映えする人生、僕も欲しい。

 

こだわりを持たないってのはどうやら何も考えずに成功するには一番手っ取り早いらしい。その分リターンは少ないかもしれないけど。

能力のない人間が、何か一つのことにあこがれてしまったために、中途半端にほかの道に進むこともできず、かといってやめる勇気もわかず、その場で足踏みをしている。

 

はぁぁぁあぁ僕も努力を美化できる人間になりたかった。何かしたら偉いねってほめてくれる人が欲しかった。結局これも怠惰の裏返しで、存在しているだけで優位でありたいという気持ちの表れなのかもしれない。でもいいじゃん、概念になりたいって人が今日も呼吸して首括らずに生きてるんだし。人の形保つだけでも大変なんですよ僕。もっと褒めてくれていい。

 

結局僕は何をすれば満足するんだろう?お金がいっぱいあったら今持ってる目標は全部捨ててのうのうと生きるだろうか。某省の総合職国家公務員として働ける権利があったら飛び込むだろうか。もういっそ誰か思い切りキラキラできる人に人生をあげてしまいたい。その人が思い切り輝く瞬間を見届けて、一人でひっそりとその瞬間をかみしめながら、穏やかな気持ちで首をくくりたい。妄想ダイナマイト。

 

なんとなく、修士に入ったら休学しそうな予感もしているが、もしかしたらそんな度胸もないかもしれない。

 

以上今日の怪文書。

何者でもなくなる、ということ

僕がなぜそこまで就職を拒むのか、その理由は「何者でもない者」になるのではないか、という不安があるからだ。

この考えは中学生のときから持っていて、自分は自分にしかできないことをして生きるのだ、普通の会社員は透明人間なんだと思っていた。なぜそう思うようになったのかわからない。普通の会社員であった父の姿を見ていたからなのか、それとも尊大な自尊心を飼い慣らせなかったか。多分後者だと思うけど。

なんであれ、自分の中の思想として仕事はその人の人生をもっとも特徴付けるものだと信じている節がある。

じゃあ今の状態はどうなんだって話だけど。

  

続きを書くのがだるくなってきた。

僕は今東京事変の透明人間を聴きながらこの記事を書いている。歌は自分の都合いいように解釈して聴いたほうが気持ちがいい。

化けの皮はつまらない嘘でできている

化けの皮が剥がれるときの痛みというものは、他に比べようのないものだ。生身の自分の弱さや醜さを自覚しているがため、それを世に晒さないためにまとったその衣を無慈悲に剥がされるのである。

 自分の弱さというものを自覚しているのであればそれを変えればいいのだが、自覚していても治らないものがいくつもあるのだ。治らないなら隠すしかない。

世の中には偉大な人がいて、どんなものでも直せるし改善できる人がいるそうだ。彼いわく僕は甘えているらしい。あなたの怠惰ですか、ハイそうです。という決まりきった会話を投げあっている。常に走り続けられる人間がいるものか。それは怠惰なのか。

結局それを形だけ取り繕うしかなくて、剥がれたところに嘘を少しずつ重ねて自分の身を守っている。でも”本物”にはわかるのだ、それが偽物であることが。偽物は本物がいる村から離れて、さも自分のそれが本物であるかのように振る舞い、自分のための王国を作ることを諦めないのだ。きっとこの王国の未来は長くない。

負け惜しみならば

何がしんどいのかわかんなくてしんどい、という気持ちになる季節がやってこようとしている。

毎日毎日僕は負け惜しみを吐いては環境のせいにしてぐうたらに三連休を浪費した。

院試の面接のときに言われた「言い訳ばかりだね。」という言葉が脳裏から剥がれない。

一昨日先輩に言われた「君は周りのせいにしがちだよね」という言葉が刺さったままだ。

それでも僕は今の環境が憎い。

恵まれている?比のとり方を変えればいくらでも変わる。理学を学んだことがないのか。

それでも僕は悪くない。僕は頑張っている。僕は辛いことが嫌だ。僕は悪くない。

みんな嫌いだ。でも僕は嫌いな人にも満面の笑みで受け答えをする。僕たちは仲良しだ。僕はいい子だ。

なんで僕が正常になるための矯正を受けなきゃいけないんだ、おかしいのはお前らだ。

またコートを着て、マフラーを巻き、度の入っていないメガネをかけて、大学とは反対の道を歩いている。このまま冷たい海に落ちたら、なんて考えるけど、きっと寒くて耐えられない。

お説教を受けた話

友人と研究室で話しててる最中、「本当にしんどくなったら死ぬ」みたいな話をしたら怒られた、という話。

僕は金銭的に恵まれているわけではないので奨学金を借りているが、これは本人に返済能力が無くなると返済しなくて良くなる*1。正直やりたいこといっぱいあるし、それなりにカネがかかるようなことをしている。そして、金のあるなしは精神の余裕に直結している*2。そしていずれ僕が奨学金を得られなくなったとき、自分が求める水準を得られる程度のカネがないなら死にたい、と考えている。金がない状態ってのはめちゃくちゃしんどい。僕自身は相当な金で維持されているし、その他も金で維持されている。

しかし話をした友人は、何があっても死んではいけない、お金をかけない方法もあるじゃん、妥協とは違う方法で、みたいな話をしてきた。そんな方法があるならどうやってやるのか教えてほしい、と思って聴いてたがどれもこれも結局金が必要なのだ。

それは健康でかつ金のある、そしていつでもリカバリーできる環境がある人間ができることなんだよ、と思った。

いや、最悪健康さえあればいいのかもしれないが、僕の体はそこそこ維持費がかかるし維持するのに結構な頻度で通院しなきゃいけないししんどい。墓まで付き合わなきゃいけない病気もあるし、根本が解決しないものもある。確かに遠い未来には解決されるかもしれないけど。彼には知ったこっちゃない問題かもしれないけど。

それは捉え方だよ、みたいなこと言われたけど、じゃあ心まで取り替えなくてもいいから僕の体と交換してくれ。普通にお風呂に入りたい。夜中発狂することなく安眠したい。注意力を上げたい。いやお前には些細なのかもしれんが俺には大問題だし、健常であるために金がいる。時間がいる。

マレーシアの人間は大変な暮らしをしてるからなんだ、彼らが幸せだからなんだ、世の中の不幸な人間が増えれば俺のこの今の現状は変わるのか、オレの心は晴れるのか、もっといい暮らしがあるってなら用意してくれ、努力をしろなんて簡単に言うな、何でもかんでもにすべてを捧げればいいのか。

自分に至らないところがあるのはわかっている、極端なことを言ってるのもわかってる、少ないサンプル数で議論してるのもよくわかってる、言い訳ばっかりに聞こえるかもしれない、でも俺は今しんどいんだ、頼む、これ以上否定*3しないでくれ、明示するだけじゃなくて用意してくれ。僕は僕の普通で暮らしたい。5000兆円くれ。愛が足りねえって言うなら僕に都合の良い愛をくれ。

*1:重大な病気や本人死亡など

*2:少なくとも僕の場合は。

*3:これは否定ではなく批判だったのかもしれない

変わること、残したいもの

僕は昔から周りの環境が変わりやすい生活をしてきた。

引っ越しも多かったし、趣味もコロコロ変わる。そういった生活に身を慣らすうちに、同じ状態にいることを嫌うようになった。

大学に入ってもその傾向はあまり変わらず、いろんなものを転々と渡り歩いていた。

その傾向から、僕は1年前までは大学院を変えると思っていた。その証拠に、僕は3年の時からいろんな大学の研究室の見学に行った。

今大学院入試が終わって、蓋を開けてみると、2年製の頃からお世話になっている研究室に残ることになっていた。

正直僕はこの研究室の半分くらいの研究は全然興味がない。なのになぜ残ったのだろう、仮に修士から博士に進むとして、そのタイミングでも僕は研究室を変えることはあるのだろうか。そういうことを一ヶ月くらい考えていた。

一応研究室を変えるという選択肢はある。国内にあまりピンとくるとこはないけど、もし仮にドイツとかにあったら、DAAD奨学金を取ればドイツでPhDが取れる。

じゃあその選択肢が有力になったとして僕はそれを選ぶのだろうか?

研究室に限らず、僕は本当に環境を変えることに耐性があるのか、考えていた。

 

色々考えた結果、僕は環境を変えているように見せて、実際は安定したある一つの環境の中で何かしらをコロコロ変えているということがわかった。今の場合は、研究室にいかりを降ろし、その止まった船の上で色々とっかえひっかえしてやりたい放題しているということだ。

僕は港を変えることはなく、船の中の模様替えをして楽しんでいるだけだったらしい。

港を変えると、ほぼ根底からすべてを変えなきゃいけなくなる。安定した土壌の上にのみ成り立っていた僕の趣味や生活などは、かなりもろいものだった。

僕はこの港でまだやりたいことがいっぱいあるし、個々にあるものから離れられる気がしない。居心地が良すぎるのだ。

ぬるま湯に浸かっているのはわかっている。また僕はこのぬるま湯に浸かり続ける選択をしてしまった。

いつかここから出なきゃいけない。研究室に限らず、僕をなすあらゆる要素でも、だ。

錨を上げる度胸が、まだ湧いてこない。