昇り降りの日々

学務様が見てる

心が動くということ

僕のよく行くバーのマスターは50歳くらいで、話がとてもうまい人だ。
バーに来る人達も大体それくらいの年齢で、社会でそれなりに地位や肩書や実績を持っている人が多い。 マスターはそういった人達の話をうまく引き出す。
僕は特に地位も肩書も実績も持っていないが、その例に漏れず色々な話を引き出される。
でもいざ、自分の引き出しを開けてみると、何も入っていない。
だからお客さんやマスターの話聞いていると、この年までこうやって語れるほどに夢中になれるものがあることをうらやましく思ってしまう。

僕が夢中になるものって何だろう。
僕の人格を変えるに至った人間、僕を大学生たらしめた学問、僕の労働先を決定づけたゲーム、僕に本を出させるまで動かしたコンテンツ、そういったものにしばらく出会っていない。
どんどん何かに狂うような感覚が薄くなってきて、ゲームやアニメの女の子が可愛くて狂う、なんて言って10分後には忘れている。

僕は外的なものに自分を動かしてもらってきた。
自分の意思で選んだというよりも、環境によってそうせざるを得ない状況に追い込まれ、それに夢中になっていると勘違いをしていたのだと思う。
その感度が少しずつすり減っているということは、僕の引き出しの中に入るものがどんどん減っていくことを意味している。

長々と書いたけど、結局僕は何かに夢中でいたいのだ。
大きなステージの上で「お前にはわからない」と叫ぶような衝動を、人ごみの中で何かを大好きだと叫ぶ恥じらいの無さを、社会になじむための訓練で失ってきた。
そもそもそんなものが、僕の中にはなかったのかもしれない。
きっと借り物の感情を演じていただけなのだ。

自分をさらけ出すこともしなくなったし、する必要もなくなった。
毎日のように適当な作り話をして、存在しない人格を演じている。
ただ失敗をしないように、日々を適当に転がしている。
人に迎合して当たり障りのないことを言うだけで、少しずつ人生の終わりが近づいていく。
この文章にだって本当の自分の主張なんか少しも入っていないのかもしれない。

誰か僕の手を強く引いてくれ、そんな他人任せの気持ちがわいてくる。
自分自身でその一歩を踏み出す勇気なんて体のどこにも残っていない。

何かが進んでいるような気になりたくて、今日も足がバーに向かおうとしてしまう。
今からお風呂に入れば、この欲求もきっとなくなるんだろうな。

これは今日の曲
こうやって借り物の言葉で気持ちを埋めるのがやめられない。

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