昇り降りの日々

学務様が見てる

風呂

風呂に入れない。極度の乾燥肌なので風呂から上がった時のあのバリバリと乾いていくあの感覚が本当に嫌いだ。あと単純に寒い。脱衣所の気温と湿度がそれなりに保たれていれば入る気になるのだが、一人暮らしの狭いユニットバスでそんな贅沢は言えない。

 

しかしあまりにも風呂に入らないのもいくら冬とはいえ不潔だし、乾燥することを除けば風呂に入ることはとても好きなので、どうにかこうにかして探した折衷案が近所の銭湯に通うことである。大学のキャンパスができてから作られた割と新しい銭湯である。

普通のお風呂はもちろん、檜風呂や露天風呂、蒸し風呂に寝風呂、サウナに関しては3種類ある。温泉自体はとても好きなのでこんなに種類があるのは楽しい。

 

脱衣所にも暖房がかかっているので、快適に着替え、保湿剤や薬を塗りたくり、湯冷めも知らずにコーヒー牛乳やアイスを楽しめる。(銭湯でテカテカの男が牛乳を飲みながらニヤニヤしていたら多分僕だ。)

 

問題は、一回の入湯料金が高いことだ。土日に関しては700円くらいとられる。しかしこの銭湯は会員になれば月7000円で入り放題である。しかも同施設内に併設されているプール・岩盤浴・ジムまで使い放題ときた。入会するかかなり悩んでいる。

 

 

だが、最大の問題がある。

帰るときにめちゃくちゃ寒いのである。こればっかりはどうしようもない…

マフラー

日本の都会では11月なのに雪が降ったらしい。しばらく気温が下がったままのようなので、これにて冬到来ということだろうか。

修羅の国もそれなりに気温が下がり、玄海灘から容赦なく吹き付ける冷たい風が僕らのキャンパスを襲い、あまりの寒さに今期初めてマフラーを巻いた。

元々南国に住んでいたこともありマフラーを巻いたことは無かったのだが、大学二年生の冬に、突然思い立ちマフラーを買った。その時から僕はこの長い布の虜になっている。マフラーを巻くと妙にわくわくするのだ。

 

別にこのマフラーは故郷の母が編んだでもなく、ましてや愛しの恋人が編んだわけでもない。そもそも僕は恋人がいない。ただ、なぜかこのマフラーを巻くと外に出たくてしょうがなくなる。

 

コートを羽織り、マフラーを巻き、ブーツを履き外へ向かい、暗い空に浮かぶ星を眺めながら煙草をふかし、かじかむ手を缶コーヒーで温め、思索に耽る(ふりをする)。本当にベタな酔い方だけれど、こんな風にカッコつけて季節に酔うのが大好きだ。ただ他人には見られたくないので、ほとんど人の通らない大学の裏の川辺でよくやっている。(もし見かけたとしても見ないふりをして通り過ぎてほしい。)

 

 

しかしこのわくわくは何由来なのだろう。色合いやデザインが単純にドンピシャだっただけなのだろうか。それともガキの頃にマフラーを巻かなかった分のわくわくが今になって襲ってきているのだろうか。

(試しにgoogle先生に尋ねてみたが、車やバイクのマフラーを変えている人しか見当たらなかった。)

生活

理想の大学生活とは何だろうか。僕が高校のころ描いた大学生活とは、研究室に寝泊まりし、黒板に数式を書きなぐり熱い議論を交わし、余暇には友人と酒を飲みながら馬鹿笑いし夢を語る、というようなありがちなものを想像していた。

もしくは、森見登美彦の小説のように、四畳半のボロアパートに住み、男友達とむさくるしく鍋を囲みながら所謂リア充に呪詛を吐く、というようなものだった。

森見登美彦の小説のせいで、京大生はみんな四畳半のボロアパートに住んでいると思っているし、京都での大学生活へのあこがれもいまだに捨てられていないが、ここでは深く書かない)

 

そんな生活に憧れ大学に入学し、研究室に通いつめ、ゼミを開いていた。だが、正直想像通りだったものはほとんどない。ゼミは参加してくれる人がほとんどいなかったし、四年生以上にならないと研究室には寝泊りできなかった。

 

三年の後期になった今、コンビニからの帰りでそんな憧れをふと思い出した。

 

憧れとはどこへやら、毎日のように寮の談話室で友人らと留年の危機を嘆き、ペンを握ることは無く、授業制度を呪い教員を呪い大学を呪い気候を呪い世界を呪い、夜中にコンビニへ向かいジャンクフードを買いあさり、また馬鹿笑いしながらチューハイを開けカップ麺をすする。

昼夜は完全に逆転し、1,2限は毎日のようにゴミに囲まれたベッドの中で過ごし、寝間着のまま研究室に向かえばボスに卒業を心配されるありさまである。

 

こんな自堕落な生活を、希望に満ち溢れた大学1年生の僕が見たらどう思うのだろう。しかし考えてみるとこれは森見登美彦の小説で読んだやつなのではないだろうか(違う)。

 

 

今日は頑張って3限に出る。きっとこの宣言はきっと今日も果たされない。

夜明けが近い。卒業は遠い。

長い文を書くこと

よくボスは「みんな文章を書くのが上手ではない」とぼやいている。

僕もその例に漏れず、あまり文章を書くのがうまくない。

 

いろいろと自分の書いてきた文章を見返してみたが、どうやら僕は長い文を書くことが苦手らしい。レポートにしてもブログにしても短い段落に短いセンテンスが目立つ(昨日の記事然り)。前後の出来事や文章をつなげる能力が著しく低いのかもしれない。

 

最近の人間はTwitterなどの短文投稿に慣れてしまい、このような傾向が強いらしい。本当かどうかは知らない。

 

箇条書きなどのように短く区切って大量の情報を並列に並べた後にまとめの文章をつなげると、箇条書きにされた内容をすべて覚えたうえでそのまとめを読まないといけなくなるので自分の中に入っていきにくい文章になるらしい。

 

特にそんなことを意識したことは無かったので、「まあ言われてみると…」という感じ

 

論文にしてもレポートにしても何にしても、これから言葉のみ、文章のみで何かを伝えるという能力がさらに求められるだろうし、最近はどうにか意識して文のつながりを意識しながら書いているが、どうもうまくいっている気がしない…

 

ボスが同時に「最近ブログ書く人少ないからなぁ」ともぼやいていたので、ブログで文を書く力が鍛えられるということか…?と思い、影響を受けやすい僕はこうしてブログを書いているわけだが、続くのだろうか。そもそもこれは効果があるのだろうか…?

 

 

 

あまり関係ない話だが、祖母は10年以上毎日ブログを書いている。すごい。

僕の好きなこと

僕は新しいものを見るのが好きだ。

それは、世界で初めての物じゃなくてもいい。

他の誰かがそれを見たことがあっても、それを知っていても、僕にとって新しければそれでいい。

 

僕は旅に出るのが好きだ。

見たこともない土地に人が住んでいる、見たこともない店に毎日通っている人がいる、その事実が僕にとって何よりも衝撃だ。

 

僕は歴史を見るのが好きだ。

その土地に誰かが住んでいた、僕の足の踏み入れたことのない土地に足を踏み入れた人間がいる。僕の住んでいるこの島は、どこまでも人間に踏破されている。その事実を目の当たりにするとき、僕は人間の歴史の長さと偉大さを感じる。

 

僕にとって物理を勉強することは、旅に出て、歴史を感じて、自分にとって新しいものを見ることと同じだ。

 

でも、僕は果たして、誰も踏破したことのない土地を踏破したい、誰も見たことのないものを見たいという欲望はあるのだろうか。

それはつまり、アカデミアの世界に身を投じ、世界でだれも見たことがない現象を発見することに楽しみを見出せるのだろうか、ということである。

 

 

僕は探検家ではなく、ただの旅人なのではないだろうか。

8月14日(日)進捗

二度寝して12時過ぎに起きる

13時から談話室に引きこもるがTwitterがはかどり進まない

 

 進捗

イギカワ大問2つ

 

少ないなぁ……

明日はサマチャレの予習と準備をしよう

あと今日解けなかったイギカワ大問2つ+1くらいやって、時間が余ったら非平衡よみたいなぁ

 

とりあえず強い精神をもってTwitterを閉じよう