昇り降りの日々

学務様が見てる

25年

過去を振り返ることにあまり意味はないように思う。
人間はこうやって記録を付けない限り大抵のことは忘れてしまって、その大半を死ぬまでただ一度も思い出すことがない。
脳の仕組みが物事を忘れるようにできているのなら、過去を忘れることのできた種が今まで生き残って、繁栄したのだろう。

僕も、あまり昔の記憶に理由を求めなくなった。
今の僕がこうあるのは小学校の時のあの出来事が原因なんだ、あの時の母の教育方針がこうだったからこんな人間になってしまったんだ、なんて振り返り方をするのは不毛であると気づくのに25年かかった。

今の僕に『したい』が駆動していることはどれくらいあるだろう、『したくない』に駆動されているもののの方がよっぽど多い。
この半年、出来るだけ物事の『良いところ』に目を向けるように頑張ってきた。
でも何かを評価しようとすると必ず好きなところよりも嫌いなところに目がいってしまう。
それが何に起因しているとかではなくて、今ある僕がそういう人間であるという事実がただただ辛い。
憧れている人間が見えている景色が少しだけ想像できる気がした。
後からインストールされた『人間はかくあるべき』という姿と自分を比較して悲しむことはしなくなった。
何かを悪いというのはとても難しい、自分の大好きを叫ぶ、憧れと今ある自分に折り合いをつける作業に日々勤しんでいる。

過去を見るのをやめた、隣に並ぶ人間たちと比較するのをやめた、将来を見て悲観するのもやめた。
ただ自分の内面をあるように受け入れることは停滞なのだろうか。
過去の一部になってしまったからこそ、学部生時代の感情の浮き沈みさえどこか懐かしい。
その場に止まり続けているからこそ、ジェットコースターのように乱高下を繰り返すスリルが欲しくなる。
今の僕は過去を振り返らなくなったのではなくて、過去の自分を嘲笑っているだけなのかもしれない。
『したいこと』を『していること』に変えるのにそこまで大きな一歩は必要ないのに、とどまって自分を受け入れる作業はまた『したくない』を駆動するための材料を探しているだけなんだろうか。
『素直』とか『正直』とか『誠実』ってやつが僕には足りない。

ブログというまとまった文章でさえ、こんなに繋がらない考えを書いてしまうのはTwitterの弊害なのかな。

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