昇り降りの日々

学務様が見てる

目的のない文

GWは祖父母の家にいた。
祖父母は終活と銘打って色々なものを整理するのにハマっており、その一環で田舎に買った家で4月から隠居生活を始めた。
お正月に会ったときに「絶対に遊びに来てね!」「絶対行くよ」とした約束を果たすための小旅行だった。

電車で4時間揺られてついた町は文字通りのカエルの合唱が響く田舎で、日が沈んだ薄暗い空に雪が解け残った山が映えていた。
先に祖父母の家についていた叔母に迎えに来てもらい、何もない田舎道をしばらく揺られる。
窓から見える景色をアルプスを見ながら「祖父母はこの町で死ぬのだ」と縁起でもないことを考えていた。

着いた家はなんて事のない普通の一軒家で、庭には小さな畑、中には見慣れた家具が並べられていた。
祖父母は相変わらずいつも通りで、「最近田植えが始まった」とか「山菜がうまい」とかそんな他愛もないことを話す。
僕はそれに適当に相槌を打つだけだけど、そんなどうでもいい時間を楽しんでいた。

祖父母の家にいた間はYoutubeも全然見ないし、絵も描かないし、普段の生活からかけ離れた文字通り「何もしない」時間を過ごした。
普段何かをしないと落ち着かない生活をしているので、かなり久しぶりに無の時間を過ごした。
祖父母はこの何もない生活を楽しんでいるのかと思うと、少しうらやましかった。

GWが明けて2日過ごしてみてわかったのだが、僕は普段の生活に目的がない。
ただ寝て起きて仕事をする繰り返しだけの生活で、サイクル自体は祖父母とそこまで変わらないのだが、僕の生活のほうはどことない虚無感を感じる。
きっとそれは世界を楽しんでいるかどうかの違いで、僕はビルに囲まれた広い世界の中でただ寝そべっているだけ、祖父母は山の中の小さな世界でその機微を愛でている。
ただ生活がつらい、目的のない僕の人生が行きつく先に、山の中の小さな家は無いのだなと何となく悟った。
僕はどこにいるのだろう、どこに向かうのだろう、どこに行きつくのだろう、たった1人しかいない人生自体を悲観しているわけではないが、自分の目線の先に何があるかもわからない状態で生きることにただ苦痛を感じる。
親が健康な体に生んでくれたおかげで、自ら命を絶たなければきっとあと60年近くは生きる。
気が付いたら30という数字が見えてきた、僕はどうやって生きていけばいいだろう。
もう何もわからない。


物心ついた頃から祖母は別れるときは僕にハグをする。
気恥ずかしいと思った時期もあったけど、20を過ぎたあたりから自分から積極的にするようになった。
このハグで僕の寿命を祖母に分け与えられたらいいのに、といつも思う。
だから僕は念を込めて背中をさする。
一分一秒でも、祖母がこの世界を楽しむ時間が長くなるように。