僕たちは一生懸命自分を何かで特徴付けようとしている。
あんなことがあった、こんなことがあった、その言葉の裏にあるのは『共感したい』という思いではなく『僕がこういう人間であることを知ってほしい』という欲求だ。
むき出しになった顕示欲で、到底『他人』には理解されない自分の潜在的な何かを晒そうとしている。
僕たちは真の意味で他人とは共感していない。
学校でならった、教科書にかいてあった、社会にいる人達を真似した『共感の方法』をインストールして、その通りに実行しているだけだ。
他人との共感の仕方を学べなかったがために、他人に自分のことを知ってもらおうと躍起になって、こうやってブログを書く、Twitterにつぶやく。
それは「特別なあなたに共有したい」ものではなくて「ここにいる奴等に自分という人間をわからせたい」という欲求。
自分が優位にたてる人間だけを集めて、自分に構ってくれる人間だけを集めて仰々しい演説をしているのと変わらない。
コミュニケーションではないのだ。
そのなかから「こいつは同等と認めてやってもいいだろう」なんて上から目線の選別で共鳴する相手を選んで、鳴き声のような定型文でコミュニケーションをするふりをする。
僕たちは何もわかりあえない。
鏡相手でもできる、なんだったら壁相手でもできるはずなのに、そこに生身の人間がいるという事実で自分の欲求を満たしている。
なぜ僕たちは絶対他人には見えないものを見せたがっているんだろう。
それはきっと、他人に見える外面に何もないからだ。
自信がない、他人から見た僕たちは何者でもない、そう思われるのが怖い、恐怖の裏返しだ。
『僕』はその恐怖をインストールした『理性』でねじ伏せる。
この文を最後まで書ききったということは、『僕』の理性が今日も負けた証拠だ。